血の滲むような苦労の末成功した9人 この女優はザリガニや雑草を食べて飢えをしのいだ

いつもテレビや映画で見かける、活躍し輝く人々。

「いいなぁ、恵まれた境遇で」…そう思っている人もいるかもしれませんね。確かに、容姿に恵まれ子供の頃から周囲にチヤホヤされて生きてきた人もその中にはいるでしょう。けれど、必ずしも全員がそうなのでしょうか?

今回紹介するのは、血の滲むような苦労の末に成功を掴んだ9人。その努力を知れば、今までの見方が変わってしまうかもしれません。

秋元才加

AKBを牽引した秋元さんは、テレビ番組などで、幼少期の貧しかったエピソードをたびたび明かしています。

家では、電気やガスが止まってしまうことも珍しくなく、冬でも冷たいお風呂に入ったり、電気がつかなかったために新聞紙を燃やして灯り代わりにしていたと言います。そんな状況でも勉学に励みたかった秋元さんは、焼却炉に捨てられた教材を拾ってきたりすることもありました。

貧乏が理由で、夢をあきらめたくない。そう思っていた秋元さんは、誰よりも努力して、スポーツや勉強に打ち込んでいたと言います。そしてひょんなことから芸能界入りのチャンスを掴んだ秋元さんは、持ち前のガッツで一躍アイドルとして日本中から愛される存在に。

現在は、その経験を活かして若い人たちに奨学金などに関するアドバイスを送っているというのだから驚きです。自分の暗い過去を、人々の役に立てようとするなんて、よほど器の大きな人でないとできないことではないでしょうか?

 

アーノルド・シュワルツェネッガー

1947年オーストリア生まれ。アメリカでボディビルダーとして成功し、映画俳優としても名が知れ渡り、挙げ句の果てにはカリフォルニア州の州知事まで務めました。日本では「シュワちゃん」の愛称で親しまれていますよね。

子供の頃からマッチョで、チヤホヤされ続けて、そのまま成功したんだろうな…そう思うかもしれませんね。いいえ、実際のところは全然違います。父親はナチスの党員だったと言われており、父はその罪悪感から逃れるため、酒浸りでした。週に1、2回酔っ払って家に帰ってくると、叫び声をあげながら幼いアーノルドを殴り、母親は怯えながらそれを見ていたと言います。また、体もどちらかというと虚弱でした。

そのような劣悪な環境から抜け出したい。その一心で、努力に努力を重ねました。20代で本格的にボディビルを始めたことがきっかけでアメリカへ移住。その時の手持ちはたったの20ドルで、英語も流暢ではありませんでした。(現在もドイツ語の訛りが残っています。)渡米してからの生活も過酷でした。みっちり5時間はトレーニングを積み、大学の授業に出席し、さらにボディビルはお金にならなかったため工事現場でアルバイト。夜8時から深夜まで演劇と発音矯正クラスに出席するという超ハードスケジュールをこなし続けた結果、ボディビルダーとして成功し、俳優業での躍進にも繋がっていったのです。

本人曰く「あまりにもつらい記憶」であることから、父親とのエピソードはあまり公にしてはいません。

ちなみに、シュワちゃんの永遠のライバルもまた、相当な苦労人だったとか…?

 

ウォンビン

韓流四天王のひとり、ウォンビンもまた相当な苦労人。韓国の江原道にある田舎町で末っ子として誕生。実家は農家で、決して裕福ではなかったため、自動車の整備工として働き家族を支えました。けれども、容貌だけはやはり幼い頃から際立ったものがあったようです。

芸能界での成功を夢見て、単身でソウルに上京してからも、工場で働いたり、新聞配達をしながら、必死にオーディションを受け続けました。そして2000年に出演したドラマ「秋の童話」が契機となり、韓国でも日本でもブレイクを果たしたんですね。

最近のウォンビンが何をしているのか気になる方は、こちらの記事をお読みください。

 

米津玄師

徳島県出身、突如として現れ、日本中に「Lemon」旋風を巻き起こした米津玄師さん。歌手としての才能が抜きん出ているということはもちろんのこと、イラストレーションやプログラミングなども自分でこなす、現代を象徴するかのようなマルチアーティストですが、その思春期も決して楽なものではなかったようです。

子供の頃から、周囲とのコミュニケーションに難を感じていた米津さんは学校に全く馴染めませんでした。また、「玄師」という変わった名前も、格好のからかいのターゲットになってしまったそうです。

(その時は分かりませんでしたが、20歳になった時に、高機能自閉症と診断されたそうです。)

さらに言えば、誕生時にすでに4500グラムあり、体つきがヒョロっとしてとても大きかった(現在は身長188センチ)ことも、悪目立ちする原因となっていたようです。本人は切に「普通の人」になりたいと願っていました。

そんな時、救いを見出したのがインターネットの世界でした。現実世界にはない居場所が、そこにはあったのです。米津さんは持ち前のクリエイティビティを、インターネットの世界で炸裂させていくことになります。2013年前後にニコニコ動画音楽シーンを湧かせていたアーティストネーム・ハチが突如として紅白歌合戦に出場してくるなんて、当時は誰も予想していませんでした。

このように、たどってきた道筋を見ると、いわゆる「引きこもり」と隣り合わせのような少し危なっかしい成功の仕方でした。しかしだからこそ、米津玄師のような天才アーティストは2度とは現れないかもしれません。

 

滝沢秀明

ジャニーズ事務所の顔と言っても過言でない永遠の美少年、滝沢秀明さんもまた苦労を強いられたひとりでした。幼稚園のころ、両親の離婚がきっかけで超貧乏生活がスタート。服を買うお金はもちろん、文房具すらろくに買えず、常に落ちている消しゴムや鉛筆を拾ってくるクセがついてしまったそう。

食事もロクなものは食べられず、いつも小麦粉と水作ったホットケーキのようなものにケチャップをかけて空腹をごまかす日々。そんな時でも3歳上の姉、2歳上の兄と助け合って、なんとか暮らしていました。

健気な滝沢少年の心にある想いはひとつでした。「お母さんを助けたい」…中学生でも働ける仕事を探し、プロレスラーを志しますが、あまりにも華奢だったため入門を断られてしまいます。プロレスラーの道を諦めたことは、私たちからしたらラッキーだったかもしれません。これにより、ジャニーズ事務所に自らの意思で履歴書を送ることとなり、誰もが知るアイドル・タッキーが誕生したのです。

現在ジャニーさんの意思を継ぐ者として、大きなジャニーズ事務所をまとめ上げられているのは、幼少の頃からの苦労があったからなのかもしれません。

 

ダニエル・クレイグ

ジェームズ・ボンド役であまりにも有名なダニエルですが、俳優としてのエリート街道を歩んできたわけでは決してありません。演劇が大好きだったダニエル少年は、16歳で銀幕デビューを果たしますが、その後役者としての仕事はパッタリと途絶えました。ロンドンのレストランでウェイターなどの仕事をしてなんとか食い繋いでいましたが、ついに家賃を払うことができなくなり、ホームレスに。

そんなダニエルがどのようにしてスターダムにのし上がったかは、こちらの記事をお読みください。

 

新海誠

表舞台に立つ人ばかり紹介してきましたが、ここで裏方の人もひとり紹介しましょう。アニメーション映画「君の名は。」(2016)で大ブレイクした、新海誠監督です。

アニメ監督を志した新海監督、キャリアの初期からアニメ会社で勤めていたのかというと、全然違います。一番最初に働き始めた場所は立川にあるゲーム会社、ファルコムでした。そこでは自慢のクリエイティビティを活かして、ゲームのオープニングムービーなどを制作。しかし、「会社の仕事ではなく、自分自身の作品を作りたい」…そう願った新海監督、会社員時代は、深夜に帰宅してそのまま明け方3時まで自主制作アニメーションを作り、3時間だけ眠って朝6時に起きてそのまま出社するというハードなスケジュールをこなしました。

独立後も、アダルト系のゲームのオープニングアニメーションなど、おそらく本人としては不本意な仕事でも誠意を込めて作品作りを続けて食い繋ぎました。するとその努力が実り、2002年、監督・脚本・作画・美術・編集などをほぼ全て自分でこなしたアニメ映画「ほしのこえ」が注目を浴び、アニメファンの間ではその名はよく知られるようになっていきます。

そして2016年、ついに一般層にまでその名を轟かせたのです。

 

ジム・キャリー

コメディ俳優と言ったら真っ先に名前が挙がるのが、ジム・キャリーではないでしょうか?カナダ出身、いつも明るい笑顔とユーモアで私たちをハッピーな気持ちにさせてくれるジムですが、その笑顔の裏にあるものは壮絶です。

中学生の頃、エリート会計士だった父親が急に仕事を辞めてしまい、一家は極貧生活をスタートさせざるをえませんでした。フォルクスワーゲンの中で一家5人が暮らしていたなんて、想像がつきますか?家族全員がトロントの郊外で工場清掃などの低給アルバイトにつきなんとか食い繋ぐ日々。ジム自身も学校から帰ってくると8時間も労働しなければなりませんでした。挙げ句の果てに、あまりの不安定さに母親が精神を病み気味になってしまいます。それでもジムは、その苦境を、持ち前のユーモアのセンスで乗り切ります。不思議なことに、ジムがいたおかげで、一家の中では笑いが耐えなかったのです。

自身のコメディアンとしての才能に賭けるしかなかったジム、19歳でアメリカに移住。中古車を家がわりにして、オーディションを受けまくりますが、どれも落選。どんなに苦しい時でも、自分の小切手に「100万ドル」と書き、「いつかこれを現金化するんだ」という夢を捨てませんでした。その後1994年、「エース・ベンチュラ」に出演したことがきっかけで、一躍スターに。

苦しい時を支えたその夢が、今は現実のものになっていることに驚かされますね。

ちなみにそんなジムのセリフが、日本語に聞こえてしまうシーンがあるんだとか…?

 

麻生久美子

「CASSHERN」「時効警察」などで知られ、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を獲得したこともある女優の麻生久美子さんも、幼少時代は赤貧であったことを明かしています。

本人曰く「外灯もないような自然に囲まれた田舎で育ち(千葉県)」、父親がギャンブル好きだったため家にはしょっちゅう借金取りが来ていたそう。母親がいくつも仕事を掛け持ちしてなんとか家計を支えましたが、やはりお金は十分ではなく、服が買えないのでいつも体操服で学校に通っていました。

母親は常に仕事で疲弊しており、仕事に出ていく母親に「行かないで」と言ってドアにしがみついて泣いたことまであったそうです。

さらに食べ物に困っていた一家はそこらへんにうじゃうじゃいるザリガニを釣って食べていたそうです。木の実や雑草も、重要な栄養源でした。

野生のザリガニには寄生虫がいることがあり、食べることは大変危険ですので絶対に真似しないでくださいね。麻生さん、生きて成功してくれて本当に良かった…。

いかがでしたか?

大きな成功を掴んだ人々でも、必ずしも最初から恵まれていたというわけではないのです。

「強さは、勝つことから生まれるのではない。強さを鍛えてくれるのは苦労なんだ。困難にめげずあきらめないと決心する…それが強さなんだ」

この言葉は、上述のアーノルド・シュワルツェネッガーの言葉ですが、そのバックグラウンドを知った今、なお深く胸に響いてきますね。苦労の末に成功した皆さん…ますます応援したくなってしまいました!

血の滲むような努力の末に成功した人々は、こちらからもお読みいただけます。

 

 
 

 

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