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えらい

役者を目指したイギリスの少年は「貧相だ」と言われ続けた しかし20年後スクリーンで見た姿に言葉をつげなかった

ダニエルの生まれた英国・チェスターは、ロンドンから電車で2時間ほどの小さな街でした。イギリス人らしく、ラグビーをやったり、母親や姉妹と一緒に劇場に行くことを楽しむような、ごく普通の少年でした。

しかしそこはイギリス、舞台芸術が深く根付く国。母親の友人に、演劇関係者が多かったことから、いつしか少年ダニエルは演じるということに強い興味を抱くようになっていきました。

16歳でロンドンに移ったダニエルは、そこでナショナルユースシアターに参加し、本格的に役者を目指すことにしたのです。

しかしいくつか問題がありました。さほど人の目を引くような容貌ではなかったのです。

典型的な美青年タイプでなければ、体格が良いということもなく、もちろん上流階級の出身というわけでもありません。その存在はいささか地味でした。

名門・ギルドホール音楽演劇学校を卒業したあとも、役者としての仕事にありつくことは難しく、しばらくは公園のベンチで寝泊りする毎日が続いたと言います。みすぼらしい格好のダニエルのことを気にかける人など、誰一人としていませんでした。

「生きるためになんだってしてきた。なにせお金がなかったんだよ」

ダニエルはそう述懐しています。

しかしそうした生活を続けていくうちに、徐々にイギリスのテレビや映画の小さな役が回ってくるようになります。圧倒的な存在感こそ見せられませんでしたが、関係者からは注目株として見なされはじめます。それでも依然として生活は成り立っていないような状態でした。

そんなダニエルに転機がやってきたのは、画家フランシス・ベイコンの伝記的映画「愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像」(1998)にベイコンの恋人役で出演したことがきっかけでした(ちなみに音楽は坂本龍一が担当!)。この作品でいくつかの映画賞を受賞し、これを推進力にして「トゥームレイダー」(2001)「ロード・トゥ・パーディション」(2002)などのアメリカの大作にも出演し始めますが、いかんせん、こちらでもやはりいまいちパッとしない役でした。

しかし地味でも、ゆっくりと着実にキャリアを積み重ねてきたダニエルの評判は、映画関係者の中ではよく知られるようになってきていました。そしてついにその時がやってきます。

世界でもっとも有名なスパイを演じてみないかと声をかけられたのです。何度も何度も綿密なオーディションを重ね、ついにダニエルは役を掴むことに成功します。

そして2005年、ついに世界にその事実が発表されたのです。

「6代目ジェームズ・ボンドを演じるのは、英国人俳優ダニエル・クレイグ」

この発表に、世界中は大騒ぎでした!…悪い意味で。

ダニエルのアメリカでの知名度が絶対的に低かったことに加え、今までのボンドを演じてきた俳優たちのイメージとはあまりにもかけ離れたダニエルの容貌に、批判が噴出したのです。

「顔が貧相だ」「金髪のボンドなんてありえない」「背が低すぎる」「今すぐ変えさせろ」

いくつものアンチサイトが立ち上がり、辞めさせるための署名運動まで起きてしまうなど、ここまで逆風が強かったボンドはダニエルが歴史上初めてでした。ボンドシリーズの根強いファンは、ダニエルがシリーズの伝統を崩してしまうと強く危惧したのです。

しかしそれこそが制作者の狙いでした。

現実との解離が進みすぎてしまったボンドをリセットし、現実の人間としてのリアリティを取り戻したいと考えていたからです。生まれついてのヒーローという雰囲気ではない、生身の人間としての現実味のあったダニエルが、マンネリ化したシリーズに新風を吹き込んでくれるに違いないと期待したのです。

飛んでくる批判のほとんどが稚拙なものでしたが、やはりアンチたちの存在に深く傷ついていたダニエル。そんな時、こんな言葉を自分に言い聞かせたそうです。

「アンチたちを黙らせる唯一の方法、それは自分が完璧にボンドを演じ切ることの他にない」

そして様々な意味で満を持して、2006年、ボンドシリーズの記念すべき21作目「007 カジノ・ロワイヤル」は公開されたのです。

さぁ、この結果がどうなったか?皆さんもうご存知なのではないでしょうか。従来のイメージを180度覆し、無骨で野性味に溢れる若きボンドは、熱狂的に迎え入れられたのです。

一般の観客も、批評家も手のひらを返したように大絶賛。

「史上最高のボンド」「ダニエル・クレイグはセクシー」「スーツが世界で一番似合う男」

新聞や雑誌の評論欄にはそんな言葉が踊りました。辛口映画評論家のロジャー・イーバートをもってしても、「45年間のボンド映画の歴史の中で、誰も考えなかったような素晴らしい答えを導き出した」と言わしめたのです。

評判が追い風となり、カジノ・ロワイヤルは世界で約6億ドルの興行収入を叩き出し、ボンド映画の歴代最高の興行収入をあっさりと更新してしまったのです。

ダニエルが演じるボンドの勢いはその後も止まりません。2作目の「慰めの報酬」ではやや苦しんだものの、3作目「スカイフォール」ではさらなる興行収入を上げ、なんとこの1作だけで5代目ボンド、ピアース・ブロスナンの出演した全てのボンド映画の収益を上回ってしまうほどでした。

4作目「スペクター」も好評を博したダニエル版ボンド。しかしダニエルは、5作目でボンドからは引退するということを公表しています。肉体的な負担や時間的な拘束が大きすぎることが理由です。自分をスターダムに押し上げてくれたボンドという役には感謝しつつも、役者として次のステップに挑みたいと考えているのでしょう。

しかしシリーズからの出口戦略を実行したダニエルにまたしても大きな苦難が降りかかります。2021年に公開予定されていた最終作「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」(監督は日系のキャリー・フクナガ)の公開が、新型コロナウイルスの影響で、先行きが不透明になってしまったのです!

しかし…そんな苦難も乗り越え、映画は無事に公開。全世界で大ヒットし、パンデミック時代の最高興行収入を記録したハリウッド映画となりました。

いかがでしたか?ボンドとしてはもっともありえないと思われていたダニエルが、全てをまるでオセロのようにひっくり返し、歴史上最高のボンドと呼ばれるようになったのです。世界でもっとも有名なスパイが、自分の信じる道を行くことの大切さを教えてくれるなんて、なんともイギリス的な皮肉がきいていると思いませんか?

プレビュー画像:  © Pinterest/ parismatch.com

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