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トリビア

【現代の感覚ではドン引き?】近世・近代ヨーロッパの上流階級のヤバイ風習

長い歴史を紐解けば、古代や中世、近世に近代…各時代・各地域の文明や生活様式に根差した文化や風習があります。現代社会に生きる私たちの感覚からみると、ありえない驚愕のライフスタイル危険で不衛生極まりない習慣が「王道」として堂々とまかり通っていた時代もあるのです。

暗黒の中世、そしてルネサンス文化が花開いた近世はさておき、現代からさほど遠くない18世紀19世紀ですら、現代人にとってはドン引きレベルの習慣が日常の当たり前の一コマであったり、最先端だともてはやされていたのです。たとえタイムトリップしたとしても、絶対に体験したくないヤバい風習を紹介します。

1. トイレはおまるに

絢爛豪華なバロックから優美なロココへ、宮廷文化が隆盛を極めた17世紀から18世紀。贅を凝らした華やかな上流生活を送る貴族たちの日常に欠かせないものがありました。

それは「おまる」。ソースポットのような形の優美なデザインの陶製ポットを股の間に挟み、シャーっと用を足していたのです。こうしたおまるポットはブールダルーと呼ばれ、様々な美しい装飾が施され、臭いを軽減しようと香がたきしめられていました。

当時、ヨーロッパ宮廷文化の最先端であり、贅の限りを尽くした絢爛豪華な舞踏会が開かれていたベルサイユ宮殿では、王族や取り巻きの大貴族を除き専用のトイレがなかったため、ベルサイユに集う貴族たちの多くは携帯おまるを持参していました。

夜ごと開かれる華やかな舞踏会に参加する貴族たちも携帯おまる必須。男性陣は庭園で用を足せたものの、貴婦人たちは携帯おまるに用を足し、宮殿の敷地内に捨てていたのです。中には階段やカーテンの陰に隠れて用を足してしまう強者までいたとか…さぞかしアンモニア臭が…想像するだけでも目眩がしそうです。

バロック建築の集大成と言われるベルサイユ宮殿ですが、庭園は糞尿だらけで相当臭かったようです。

こちらはルイ15世も使用していた上げ蓋式便器。

またがるようにして、前向きに座るんですね。てっきり現代のトイレのように座るのかと思っていました。

こちらは王のトイレ。ちなみにルイ16世は水洗式のトイレを使用していたとか。

ちなみに当時、ヨーロッパ都市部に暮らす平民たちは糞尿を部屋の窓から外へ投げ捨てており、貴族たちも糞尿を「ポイ捨て」するのは当たり前の行為だったようです。糞尿の臭いは日常から切っても切り離せないものであり、臭かろうがそれが平常運転でした。

2. お洒落への異常なこだわり

マリーアントワネットが火付け役になったと言われる超盛ヘアスタイル。まるで高さを競うがごとく、盛々に髪を高く結い上げ、終いにはドアに出入るすることも困難&馬車での移動は試練となるほど、限界となるまで盛り上げたヘアスタイルは当時の宮廷貴族の間で大流行しました。

盛り上げるだけに飽き足らず、鳥のはく製や庭園の模型、軍艦を載せたりするなど様々な趣向を凝らしたヘアスタイルが最先端ファッションとして誉めそやされたのです。

小麦粉をぶっかけて白くした髪はシラミやノミだらけ。頭髪にたかる害虫は「貴婦人のお友達」と呼ばれていました。

しかも、盛ヘアに巨大で重い装飾を載せるため、首に負担がかかり、中には首を骨折してしまった貴婦人もいたそうです。実に命がけのオシャレ…罪な流行です。

またパニエで大きく膨らませたスカートが流行。大きいほどお洒落!との風潮から扉を通ることができずに焦る貴婦人が続出したとか。

しかし、お洒落に関しては男性陣も負けてはいません。ヨーロッパにナポレオン旋風が吹き荒れた19世紀初頭、イギリスでファッションアイコンとして君臨したBeau Brummell(伊達男ブランメル)の名で知られたジョージ・ブライアン・ブランメル。後にヨーロッパのファッション流行の王者として君臨する伝説のダンディのお洒落に対するこだわりは相当なものでした。

イギリス紳士服の基準を作ったと言われるブランメル。彼が考案した白いネクタイを首回りに高々と結びつけるスタイルは当時の伊達男たちが競って真似をしようとしました。

さらに体にフィットした上衣のスッキリしたシルエットにこだわり、コルセットを着用。着付けの際に、コルセットのレース紐を召使が全力で締め上げていました。 

外出の身支度には、8人の召使の手を借りて5時間を要したそうです。お気に入りのブーツはシャンペンで洗い、ピカピカのブーツが汚れないよう座ってばかりいたとか。

3. 付け眉毛

当時のヨーロッパでは日に焼けていない白い肌こそ富裕層の象徴とされており、貴族たちは肌をより白くみせるために鉛白を使った鉛おしろいを塗りたくっていました。しかし有害な鉛によって頭髪だけでなく眉毛まで抜け落ちてしまう脱毛症状を引き起こす人が続出。失った眉毛を描いてカバーする現代でもお馴染みのメイク法以外に、なんとネズミ(!)の毛皮で作った付け眉毛を貼り付ける貴婦人もいました。

現代の感覚では気持ち悪いことこの上ないネズミ皮付け眉毛…しかし18世紀にはこの付け眉毛が大流行し、貴族女性の中にはまだ生えている自前の眉毛を剃ってまでして付け眉毛を貼り付ける者までいたそうです。衛生観念のなさというか、お洒落への執念、恐るべし。

4. 入れ歯の歯の入手元

当時、贅沢の象徴であった砂糖をたっぷり使った甘いお菓子を食べる機会が多い上流階級の人々にとって、虫歯は身近な問題でした。

「歯が全ての病気の感染の巣である」という侍医の指示により健康な歯を含む全ての歯を抜かれてしまったルイ14世のエピソードが物語るように、虫歯や歯槽膿漏といった問題に数多くの貴族が悩まされていたのです。

ちなみにルイ14世は歯を全て抜いたことにより、食べ物を咀嚼できず消化不良気味に。そのため下剤が必須となり頻繁に便意に襲われ、1日に14〜18回もトイレに駆け込んだそうです。会議中も「椅子式便器」の上で排便。お口から下から激しい臭いを放っていた太陽王ルイ14世 ↓

当時は「悪い歯は悪玉。歯が痛くなったら抜いてしまえ」という考えのもと、虫歯で歯がうずくたびに抜歯が奨励されていました。麻酔のない時代、当然抜歯は激痛を伴います。上流階級者たちは抜歯後の歯茎に新鮮な本物の歯を義歯としてねじ込んでいました。たいていの場合、死体の口から引き抜いた歯が用いられたものの、新鮮な死体を狙う墓場荒らしや、病死者が罹患していた病原菌の感染やその他感染症のリスクが問題となっていました。

そこで18世紀初頭に注目されたのが「ワーテルロー戦い」で命を落とした兵士たちです。

戦場で名誉の戦士を遂げた若く健康な兵士たちの死体から収集された歯を、象牙製や陶器製の歯茎に差し込んで作られた入れ歯は「ワーテルローの歯」と呼ばれ、上流階級を対象にした歯科医療界で大きな注目を集めました。

5. 公開処刑はお祭りイベント

19世紀まで見せしめ効果を狙った公開処刑はごく普通に行われていました。フランスでは1939年までギロチンによる処刑が公開されており、最後の処刑では周囲の建物までが見物のため高値で貸切られる有様だったそう。

1793年1月、革命広場(現コンコルド広場)で2万人の群衆が注目する中、ルイ16世が処刑されると、パリ市民らは髪の毛など王の遺物をこぞって持ち帰りました。断頭台の周囲に流れたルイ16世の血に服や持っていた布きれを浸す市民もいたそうです。

イギリスでは、3度の脱獄に成功した後、1724年に絞首刑となったジャック・シェパードの処刑には、当時のロンドン市の人口の3分の1にあたる20万人以上が見物に繰り出したという記録が残っています。処刑日当日には大勢の群衆が詰めかけ、処刑が執行される広場を埋め尽くしました。

1807年イギリスのニューゲート監獄では、殺到した見物客100人以上が圧死する事故も起きています。

ちなみに、フランス革命によりギロチン公開処刑が浸透すると、ギロチンのミニチュアが子供向け玩具として販売されるようになり、子供たちが捕まえてきた鳥やネズミの首を処刑ごっこと称し切り落として遊んだという記録も残っています。詩人ゲーテは、我が子のためにこのオモチャを買って欲しいと母に頼み、「あの悪名高い、殺人おもちゃで子供を遊ばせるなんて絶対にダメです!」と説教をくらっています。ゲーテ、まともなお母さんでよかったね…

こちらは1794年製のギロチンのおもちゃ ↓

6. アイスのフレーバーがおかしい

現代のアイスクリーム同様に、当時もチョコレートやレモン、ベリー系やコーヒーフレーバーのアイスクリームは存在していました。しかし、当時の定番フレーバーの中には、カルダモン、ナツメグ、カボチャ、紅茶、ライ麦パン、ショウガといった不思議系アイスも。

7. 婚活は今以上に必死

女性の社会進出が進んでいなかった当時、上流階級の女性にとっても結婚は人生を左右する一大課題でした。特に19世紀まで西洋では女性に財産権と相続権が認められていなかったため、男子のいない家系では実の娘に財産を継がせることができず、身内の一番近い男性が全財産を相続することになります。つまり極端な場合、王族や大貴族を除く中流・下層貴族や平民階級の未亡人や娘たちは家から追い出され一文無しで路頭に迷う可能性すらありました。

そのため、当時の上流・中流階級の女性にとって結婚=人生を左右する就職のようなもので、出会いの場となる舞踏会は若い女性にとって娯楽というより、重要な社交の場であると同時に真剣な「お見合いの場」でもあったのです。しかも母親や父親などの付き添い者同伴。令嬢が怪しい男や家族にとって条件の悪い男に引っかからないよう「付き添いがしっかり目を光らる」というわけです。

条件のいい紳士にパーティで見初められるよう美しく着飾り戦略を練り、好条件の相手からのアプローチを待つ令嬢たち。扇子を使い相手に意味深なメッセージを送ったり、ダンスで手を取り合うときに「ヒンヤリ冷たい手だと女性らしさを印象付けられる」という当時の女子たちの間で流行していた思い込みに従い、大理石をハンドバッグに忍ばせ手を冷やしたり…と涙ぐましい努力をしていたのです。

特に、名家の上流貴族ではなく没落貴族下層貴族の令嬢たちの婚活は、家族の命運も背負っていました。親に叱咤激励されながら集団婚活の舞台=舞踏会に参加していたわけです。17歳前後から社交の場で実践を積まされ、社交の季節を3シーズンほど過ぎれば「婚期を逸し始めている」とみなされたようです。

上流階級の女性たちが手に職を持つ=零落したと思われるため、家名を汚さないためにも結婚しか選択肢がなかった時代。当然、政略結婚は当たり前。自由恋愛で家族も納得する上流階級出身者と結婚できればラッキーと言えるでしょう。

華やかな社交の世界に生きながらも、家族からのプレッシャーのもと、厳しい現実を見据えていた若き令嬢たち。なんだか気の毒ですね…

現在の感覚からは驚きの昔の当たり前の習慣。この時代にタイムトリップしたとしても、やっていける自信がありません…

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