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トリビア

【こんな終わり方イヤすぎる…】とんでもない最期を迎えた歴史上の君主たち9人

王族や貴族、どんなに高貴な生まれであっても避けることのできないもの、それは死です。身分に関係なく、生きとし生けるもの全ての人に死は例外なく訪れるもの。

でも、避けることができないのであれば、せめて穏やかな最期を迎えたい…と願うのが人間というものです。老衰である日、自然にポックリ…もしくはピンピンコロリで逝きたい…なんて密かな願望を抱いている人もいるのではないでしょうか。

しかし、歴史に名を残す王侯貴族の中には「そんな死に方?!」と思わず開いた口が塞がらないとんでもない最期を迎えてしまった人物もいるようです。こんな死因イヤだ…な歴史上の王族・貴族のちょっとビックリな死の原因9例を紹介します。

1. 処刑するはずの召使を許してあげたら…

1797年、イランのガージャール朝初代シャー、アーガー・モハンマド・シャーは二人の召使が自分の居室で喧嘩している現場を目撃、激怒して二人を処刑するよう命じますが、部下になだめられ、召使を許します。

ところが、その召使にそのまま身の回りの世話をさせていたところ…主君の気が変わることを恐れた召使により、就寝中に殺害されてしまいます。せっかく許してやったのに、恩を仇で返される結果になってしまいました。

一説には処刑を命じた日が聖日だったので、処刑を一日延期、召使いたちを職務に復帰させたという説もあります。

2. 王子がパリの街を馬で颯爽と駆け抜けていたら…

1131年、15歳のフランスの王太子フィリップ・ド・フランスは馬に乗ってパリの街を駆け抜けていると、グレーヴ広場(現市庁舎)に差し掛かったところで、肥料の山の後ろからいきなりブタが!

飛び出してきた放し飼いの雌豚(一説にはイノシシ)に馬がつまずいて王太子は落馬。打ち所が悪く、帰らぬ人となりました。

3. まさかの笑い死に

1410年、アラゴン王マルティン1世は夕食にガチョウ1羽を丸ごと完食した後で寝室でくつろいでいました。するとそこへお気に入りの宮廷道化師ボラがやって来ました。

「どこにいたんだ?」とマルティン1世の問いかけにボラはジョークで返しますが、このジョークが王の笑いのツボにヒットしてしまいます。笑いが止まらなくなりコントロール不能となった上に、ガチョウ1羽平らげた直後のたらふく状態で消化不良も重なり、王は絶命してしまいました。

どれだけ面白い切り返しだったのか、少し気になるところです。

ちなみに、イタリア・ルネサンス期の作家ピエトロ・アレティーノも1556年に笑い過ぎで窒息死しています。

4. どんだけ食べたんや

1771年2月12日、スウェーデン国王アドルフ・フレドリクはシャンパンを飲みながらロブスターにキャビア、付け合わせのザワークラウト、さらに燻製ニシンを平らげ、デザートに大好物のヘートヴェッグ(セムラ)を14人前完食した結果、消化不良を起こして亡くなりました。

享年60歳。年齢的にもすごい食欲だけど、消化機能が追いつかなかったようです。

5. 「宮廷の女房たち転ばせてやろう」とイタズラを仕掛けたら…

1242年、当時12歳のヤンチャ盛りだった四条天皇は宮廷の女房たちを転ばせてやれ、と御所の廊下に滑り石を置いてイタズラを仕掛けました。

ワクワクしながらターゲットが通りかかるのを待つ間に、「ちゃんと滑るかな?」と自ら試してみたところ、盛大にすっ転び頭を強打。打ち所が悪く、3日後に崩御してしまいました。一説には脳挫傷を起こしたといわれています。

イタズラ大好きな活発な少年だったのでしょうね、なんとも気の毒な死因です。

6. 自分の顎ヒゲによって殺された男

アドルフ・ヒトラーの生地として知られる、オーストリアの町ブラウナウアムイン。このオーストリアの中でも古い歴史を持つこの町の16世紀の町長であったハンス・シュタイニンガーは地元住民の間で評判の人物でした。

彼はなんと、地面まで長々と伸びた約140cmの手入れの行き届いた顎ヒゲを生やしており、普段は長い髭をくるくると巻いて胸ポケットにしまっていました。

しかし1567年9月28日、ブラウナウアムインで大火事が発生。逃げ惑う群衆たちの中、慌てて避難しようとしたシュタイニンガーはいつものようにしっかりとヒゲをポケットにしまいこむのを忘れてしまいます。階段を駆け下りる途中、自分の長いヒゲにつまずいてそのまま転倒。首の骨を折って亡くなってしまいました。

町民は敬愛する市長の死を悼み、聖ステファン教会の壁に記念碑を建てました。彼を死に追いやった曰く付きの長い顎ヒゲは切り落とされ、地元歴史博物館に今も展示されています。

7. 礼儀正しすぎたために死亡

デンマークの有力貴族出身であり、優れた天文学者として知られるティコ・ブラーエ。望遠鏡がまだ発明されていなかった当時、目視と航法計器、数学的計算だけに頼り1000以上の星を発見し、天文学の発達に大きく貢献しました。

デンマークでも1、2を競う大貴族家系で育った彼は、非常に礼儀正しい人物としても知られていました。

1601年10月、プラハでの宴席に出席したティコは、尿意に襲われます。しかし、用を足すために宴を途中退席するなど礼に失する…!と頑なにオシッコに行くのを自粛。宴会が終わるまで、オシッコを我慢し続けたのです。

しかし、あまりにも我慢しすぎたため、帰宅するころには排尿障害に陥り、激痛を伴うごく小量のオシッコしか出ず。感染症を引き起こし、宴から11日後に亡くなりました。

ちなみにティコが自ら書き残したと伝えたれている彼の墓碑銘は「賢者のように生き、愚者のように死んだ」です。

8. 飲兵衛がすぎて…ワインの酒樽で溺死

兄エドワード4世に対する反逆罪でロンドン塔に幽閉され。裁判ののち処刑された初代クラレンス公ジョージ・プランタジネット。

1478年2月18日、当時の伝統にしたがいボウヤータワーで「ひそかに処刑」されましたが、その直後からマルムジー・ワインの樽の中で溺死したという噂が広まりました。もともと、かなり酒好きな人物として知られており、「死ぬならワイン樽の中で死にたい」とちょっとアル中を疑ってしまうヤバイ発言も常々口にしていたと伝えられています。

あくまで噂であり真偽の程は定かではありませんが、一説には本人の希望で酒樽で溺死する処刑方法を選んだとも言われています。

9. 大勢の目の前で溺死した王女

1880年5月、シャム(現在のタイ)の国王ラーマ5世の最初の王妃スナンダ・クマリラタナが乗った船が転覆。しかし、当時の慣例で王族に触れると死刑を言い渡されることから、周囲の人々は妊娠中の王妃を救出することができず、彼女は溺死。本来ならば助かる命でしたが、王族であるが故に命を落としてしまいました。

まさかそんな理由で?と思わず目が点になりそうな死因9例。不謹慎ながら、そんな死に方イヤだ…と思わずにはいられません。とりあえず、大食いと笑いすぎ、オシッコ我慢には要注意ですね。

こんな人生の終わり方イヤだ「人類史に名を残す奇妙な幕切れを迎えた10人」も是非ご覧ください。

プレビュー画像: ©️pinterest/Nadya

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