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えらい

夢を諦めて逆に大成功した超有名人たち 7番目にうそ?!って思った

挫折なんて、誰もが出来るなら経験したくないものです。けれど挫折したり、夢を諦めらからこそ成功した人たちが存在します。

今回紹介するのは、そんな「夢を諦めて逆に大成功した人たち」11人。記事を読み終わる頃には、勇気をもらっていること間違いなしです!

アントニオ・バンデラス

ラテン系セクシー俳優の代表格であるアントニオ・バンデラスですが、そんな彼も最初は役者志望ではありませんでした。

本気でサッカー選手を目指しており、有望な若手選手だったのですが、14歳の時に怪我をして断念を余儀なくされてしまうのです。その後失意の中、たまたま劇団に入団。スペインを代表する映画監督ペドロ・アルモドバルに見出され、映画作品へ出演したことがきっかけで、世界的スターダムをのし上がっていくのです。

 

オードリー・ヘップバーン

世界を代表する女優オードリー・ヘップバーンも実は元々はバレリーナ志望。

5歳の時にはバレエを始めていて、1940年代後半には名門ランベール・バレエスクールに入学。モデルのアルバイトをしながらバレエレッスンを受けていたそうです。

しかし身長が伸びすぎてしまったことと、体が虚弱だったことが原因で、バレエの世界ではトップになれないと悟り断念。その後進んだ女優の道で花開くこととなりました。

 

大谷亮平

韓国でモデルや俳優として活躍し、逆輸入型俳優として話題になった大谷亮平さんも、もともと芸能界入りを狙っていたわけではありません。

名門校で本気でバレーボールに打ち込んでおり、将来はバレーボール選手になるだろうと漠然と思っていました。しかし、思ったほど背が伸びず(と言っても180オーバーですが…)選手を目指すには少し身長が足りないと自覚した大谷さんは、大学生になる頃にはプロの道を諦めていました。

バレーの腕を活かし、体育教師になることも考えましたが、思い切って別の世界にチャレンジしようとモデルを始めたところ、すぐに韓国から声がかかり、大きなチャンスを掴んだのです。

バレーボールの腕前は、「徹子の部屋」や、韓国のテレビ番組などでも惜しげもなく披露しています。

 

ラーズ・ウルリッヒ

デンマーク出身。ヘヴィメタルバンド・メタリカのドラマーで、オリジナルメンバーのひとりですが、なんともともとの夢はテニス選手でした!

そもそも父親がプロのテニス選手だったサラブレッド。17歳の時にカリフォルニアに引っ越してきたのも、テニス選手になることが目的でした。しかし、のちのメタリカのフロントマンとなるジェイムズ・ヘットフィールドと出会ったことにより、音楽の運命に引き込まれていくこととなります。

 

リュック・ベッソン

「ニキータ」「レオン」「フィフス・エレメント」「ジャンヌ・ダルク」など…

フランス出身の映画監督としてはずば抜けた知名度を誇るのがリュック・ベッソン。みなさんにも、お気に入りのベッソン映画があるのではないでしょうか?そのクリエイティビティは傑出したものがあり、幼少期からノートに壮大な物語の落書きを描いて周囲を驚かせていたそうです。

しかし何も、最初から映画監督志望だったわけではありません。両親ともにスキューバダイビングのインストラクターだったことから自然に海に興味を持ち、ベッソンも将来はダイバーになろうと思っていましたが、17歳の時に潜水事故にあい、もう海には潜れなくなってしまいました。

しかしここでベッソンが夢を諦めたことは、映画界にとっては大きな収穫でした。海への郷愁をたっぷりと染み込ませ、実在の天才ダイバー、ジャック・マイヨールの協力を得て作ったのが初期の傑作「グラン・ブルー」。

フランスで熱狂的な支持を集め、一流映画監督の道を歩んでいくのです。

 

MIYAVI

ピックを使わないスラップ奏法で、「サムライギタリスト」として世界に名を馳せるギタリストのMIYAVI。

小学校2年生の時からサッカーをプレーしており、地元の大阪府の選抜選手に選ばれるほどの腕前でした。しかし15歳の時に足を負傷し、サッカーを断念せざるを得なくなります。

それが原因でやさぐれたMIYAVI少年は、非行に手を染めるのと同じような感覚でギターに手を伸ばしたんだとか。そのまま学校には行かずにギター漬けの毎日を送り、プロのギタリストの道を歩み出したのです。

 

滝沢秀明

両親の離婚が原因で、赤貧生活を余儀なくされていた幼少期の滝沢少年。

学生でもできる仕事として、プロレスラーを目指しジムの扉を叩いたようですが、体が華奢すぎて入門することすらできませんでした。

その結果、若くてもできる仕事として次の候補にあがったのが、アイドルだったのです。

そのエピソードは、こちらから詳しくお読みいただけます。

 

シャーリーズ・セロン

類まれな演技力と美貌で世界を虜にしている女優、シャーリーズ・セロン。

4歳の頃からバレエをスタート。将来はもちろんバレエダンサーになるつもりでした。バレエの名門ジョフリー・バレエ・スクールに通っていましたが、膝のケガで踊ることを断念せざるを得なくなってしまいます。

バレエのことしか考えていなかったシャーリーズは絶望しますが、母のアドバイスで女優を目指すことに決め、単身ハリウッドへ。その時財布に入っていたのはたった300ドルだったと言います。しばらくはモーテル暮らしでしたが、その存在はすぐにエージェントの目に留まり、スター街道を歩み始めたのです。

ちなみに15歳の時、母がアルコール依存症だった父を殺害するという痛ましい経験をしています。(正当防衛が認められています。)多くの困難を乗り越えてきた女性でもあるのです。

 

黒澤明

日本、いや世界を代表する映画監督の黒澤明が当初志していたのは、絵の道でした。

小学校の担任の先生に絵を褒められたことで自信をつけた黒澤少年。中学卒業時にはすでに画家を志望しており、現在の東京藝術大学を受験するもあえなく玉砕。しかしそれでも諦めず、川端画学校に入学して洋画を勉強しつづけました。

やがて仁科展などで絵画が入選するようになっていきますが、黒澤の絵は「きれいすぎる」と批判されていました。黒澤自身も自分の考えが定まっていない中なんとなく上部だけ体裁の取れた絵画を創作していることに、違和感を感じていたのかもしれません。兄の死も重なって、徐々に画家としての情熱を失っていってしまった黒澤…しかしある日、映画の「助監督募集」の広告に運命的なものを感じてすぐさま応募。100倍の難関を突破して、見事映画業界入りを果たすことができたのです。

しかし黒澤の画家としての感性は、映画監督になった後も遺憾なく発揮されています。

 

ジャンボ尾崎

プロゴルファーとして有名なジャンボ尾崎こと尾崎将司さんですが、実は「優勝投手」だったことご存知ですか?

徳島県立海南高校のエースとして1964年のセンバツを制した甲子園優勝投手…まさに生粋の球児だったのです。翌1965年にはプロ野球・西鉄ライオンズに投手として入団。

しかしうまく結果を残せず、自ら退団を申し出たことで、野球人生に終止符を打ちました。しかし打撃コーチにゴルフへの転向を勧められ、ゴルフ界でメキメキと頭角を現していくのです。

 

HYDE

言わずと知れた超人気ロックバンドL’Arc〜en〜Cielのヴォーカリストで、ソロとしての活躍も目立つHYDEさんですが、一体どんな挫折を乗り越えてきたのでしょう?

絵を描くことが大好きだったHYDEさん、実は子供の頃は漫画家志望でした。とにかく絵を描くことを仕事にしたいと熱望していたHYDEさんでしたが、残酷な現実が立ちはだかります。自身の目が色覚異常(色の見え方が人と異なること)であるということが判明したのです。

職業として絵を描いていくことに不安を覚えたHYDEさん。しかしそんな時にたまたま音楽と出会い、ギターをかき鳴らしているうちに、「自分で色を描くことはできないが、音を通して色を想起させることはできる」と気がつきます。

これが、ミュージシャンとしてのHYDEさんの誕生のきっかけとなったのでした。

(そのエピソードは以下の動画でも語っています)

 

いかがでしたか?

挫折や夢を諦めた経験がなければ、私たちがよく知るあの人やこの人は誕生しなかったと言っても過言ではないでしょう。

だからもしみなさんが今挫折を経験していても、大丈夫です。挫折したことから見えてくる、新たな光景もあるのですから。