実は女性関係にふしだらすぎる歴史上の偉人たち6選 大河ドラマのあの人もいて幻滅した

血の滲むような努力と信念で、後世の人間に大きな影響を残し続ける過去の偉人たち。

以前イミシンでは、生涯純潔でその一生を終えた偉人たちを紹介しましたが、それと対を成すかのように、異性関係にとんでもなくだらしなかった偉人たちも数多く存在しています。

今回紹介するのは、そのうちの6人。

 

渋沢栄一

2021年の大河ドラマの主人公にして、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、数え年92歳の大往生でした。しかし色々な意味で生涯現役を貫いた人物であることでも有名です。

渋沢栄一は花柳界では5本の指に入るほどの遊び人で、女色にふけっていました。多くの妾も抱えており、明治6年3月に撮られた写真には、妻と妾が一緒に映っているのが確認できます。渋沢栄一には20人の子供がいたとされていますが、50人だという説もあり、そしてその多くは妾の子でした。68歳のときにも妾との間に子供が生まれています。栄一は酒もたばこもやらず、比較的質素な暮らしをしていたようですが、女性関連のことだけが唯一の道楽だったのかもしれません。

この気質は子供にまで受け継がれてしまい、息子の篤二も、明治44年(1911)5月にある芸者に惚れ込み、妻を家から出し、その芸者を家に引き入れると言い出したそうです。新聞に載るほど騒ぎが大きくなってしまった結果、栄一は忸怩たる思いで息子を後継ぎ候補から外した、と言うエピソードまであります。

 

勝海舟

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坂本龍馬の恩師的なポジションで、常に歴史上の人物の人気ランキングで上位に食い込むのが勝海舟でしょう。凛々しい、一本筋の通った男というイメージがあるかもしれませんが、かなりの好色男だったようです。

30代の頃、長崎海軍伝習所で学んでいたときに愛人ができたのを皮切りに、お糸、おかね、お久、お米、おふさ、おなか、と妾を増やし続け、少なくとも5人の妾に計9人の子を生ませ、妻と妾と同居する生活を送っていたというのだから驚きです。

しかしそれでも、本人曰く「家庭はうまくいっていた」そうで、妻であるお民が妾がいることに対して寛容であることを「偉い」と評していました。しかし、勝海舟の死後、ずっと長生きした妻のお民は、死に際に「海舟のそばには埋めてくれるな」と懇願したそう。

やはり、相当嫌われていたのですね…。

北里柴三郎

日本の細菌学の父として知られ、「北里大学」の名前の由来にもなった偉大な医学者。しかしそんな北里の女好きも有名だったようです。

本人は特に隠したてるわけでもなく豪快に花柳界では大金を使い、富豪の浅野総一郎と芸者の水揚げ競争をしたり、新橋の芸者を妾として子どもを作ったりと、医師としての品格にやや欠くところがあったようです。

 

石川啄木

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繊細でナイーブな詩人という印象のある石川啄木ですが、実は性に関してはかなり奔放だったようです。と言うよりも、現代の言葉で言う「クズ男」と言う表現がぴったり当てはまってしまうほど。

「あこがれ」を発表した18歳のころ、中学時代の初恋の相手、堀合節子と結婚するも、結婚式をすっぽかし、結婚後も家族を養う素振りなどまったく見せませんでした。

文才はあったものの金遣いが荒く、生涯で約60人の知人から借金をし、その金額は現代にして約1500万円にも上っていたそうです。借金の使い道はというと、遊郭通いでした。家族の生活のためではなく、女遊びをするために借金をしていたのです。

サディスティックな側面があったことでも知られ、なかでも18歳の娼婦の性器にこぶしをねじ入れ、苦しむ女に冷酷な気持ちを抱いたと言うエピソードは強烈です。人間として何か大切なものが欠如しているような気がしますね…。

 

野口英世

黄熱病の研究を推し進め、自らも黄熱病に感染して命を落としたため、「正義感溢れる医者」と言うイメージがある野口英世。しかし残念ながら、その人格には疑問の余地が残るエピソードが数多く残っています。

野口英世は20歳のときに「医術開業試験」を受けるために上京しました。このとき、小学校時代の恩師から滞在費として現在のお金にして約20万円を受け取るのですが、なんと2ヶ月足らずでお金は底を尽きてしまいます。滞在費としてではなく、お酒、女遊び、ギャンブルで使い切ってしまったのです。

また、アメリカへの留学を希望していた野口英世は、医師を志す女子大生・斉藤ます子と婚約し、婚約持参金300円(600万円ほど)を受け取ります。しかしそのお金をまた女遊びに使ってしまい、わずかな額しか残らなかったと言います。

挙げ句の果てには、アメリカに渡った後には「研究で帰れない」などと適当に言い繕い、自ら破談へと持っていきました。結局、婚約持参金の300円は日本にいた野口の知人が返済することとなりました。野口英世はお金だけを持ち逃げしたも同然だったのです。

 

伊藤博文

「ほうき」というのが、日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文についたあだ名でした。一体どうしてでしょう?

それは、掃いて捨てるほど多くの女性関係を持っていたからです。伊藤博文の女好きは、当時の政界では誰もが知るほど有名でした。伊藤自身も「良い家も、財産も要らないが、仕事終わりの芸者遊びだけはやめられない」と公言し、千人の女性と関係を持ったと豪語していたそうです。たくさんの芸者が、水揚げ相手が伊藤博文だとデビューに箔がつくからと、置屋の女将が頼んでたとかなんとか…

たとえ40度の高熱にうなされていようと、両手に芸者二人をはべらせたというほどで、一人の芸者と寝る時はもう一人を別室に待機させ、事が終わると、もう一人を呼んで川の字になって寝たなどという逸話も残っています。また、日本で初めてカーセッ○スを行ったのも、伊藤博文だと言われています。

あまりにも目に余る女遊びに、なんと明治天皇にすら注意されたことがある伊藤博文。しかしそんな時も、「博文をとやかく申す連中の中には、密かに囲い者などを置いている者もいますが、博文は公許の芸人どもを公然とよぶまでです」と開き直り、あくまでも自分はコソコソしてないからオーケー!というスタンスだったようです。

 

いかがでしたか?

今の価値観では到底受け入れがたい、ふしだらエピソードの数々…「英雄色を好む」という言葉がありますが、それにしたってやりすぎです!

 

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