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子ども

戦争で親を亡くした子供たちが行き着いたのは駅の地下道だった 語られなかった「駅の子」の姿

第二次世界大戦の終戦の日から76年。それだけ長い月日が経過したということが意味するところは何でしょう。それは、恐ろしいことではありますが、実際に戦争を経験し、記憶している方たちが、もう多くはないということです。

そしていまだに、あまりに多くのことが語られず知られぬままなのかもしれません。皆さんは、戦争の見えざる被害者が日本に12万人以上もいたことをご存知ですか?

日本人だけでも軍人や民間人あわせ、310万人もの命を奪ったと言われる第二次世界大戦。当時の日本には、親を亡くし戦争孤児となった子供たちで溢れていました。中には幼い妹や弟を養うため、都市部で仕事を探そうと上京してくる子供もいたそうです。しかし当時は戦争孤児たちを支援するような体制などなく、子供たちは過酷な環境を生き抜いていかなければなりませんでした。

そんな子供たちが身を寄せたのは、でした。少なくともそこでは、雨風をしのぐことが出来るからです。駅には似たような境遇の子供たちが集まり、その日その日を生き延びるのに必死でした。

それで戦争孤児たちは、「駅の子」と呼ばれたのです。

劣悪な環境の中、駅に形成されていた闇市で買えるのは1日1本のサツマイモだけ…貴重な食べ物を、他の子供たちに取られぬよう、こっそりと兄弟や姉妹と分け合って空腹をしのぐ。そんなことは駅構内ではよく見られた光景でした。駅の子たちは、毎日のように、死んでいく同い年くらいの子供を目撃しました。しかし哀れんでいる暇などありません。まず自分たちが生き延びなければならなかったからです。

お金が底をついた駅の子は、自分たちの受け入れ先や兄弟姉妹の預け先を死に物狂いで探さなければなりませんでした。結果、バラバラなところに引き取られ、そのまま生き別れになってしまう兄弟姉妹たちも多くいました。

また、駅の子の中には、盗みなどの犯罪に手を染める子供も少なくなかったと言います。生きていくための犯罪と言う側面もありましたが、それ以上に、大人に対する不信感がそうさせた面もあったと言います。

大人たちが始めた戦争。それなのに、どうして自分たちがこんな理不尽な目にあわなければならないのか?

…駅の子たちは、小さな胸にやりきれない感情を抱えていたのです。誰も自分たちを愛してはくれない。そんな思いに囚われ、中には、犯罪から抜け出せず、そのまま悲しい生涯を終える子供たちも大勢いたと言います。

戦争が終わり、爆撃の心配がなくなっても、駅の子に安息の地などなかったのです。

「児童福祉法」が成立し、状況が改善され始めたのは、終戦から実に2年が経ってからのことでした。

駅の子の悲劇は、かの有名なアニメーション映画「火垂るの墓」でも描かれています。そもそも映画は、親を亡くした主人公・清太が駅構内で命を落とす場面からスタートします。清太もまた、救済の場として駅に身を寄せたのでしょう。

しかし清太のことを気に掛ける大人の姿などそこにはなく、駅員たちも、「うわ、また子供が死んでるぞ。汚いなぁ」と言ったような冷徹な反応であることが描かれています。あまりに日常の光景だったのでしょう。

駅の子の数は実に12万人を超えていたと言われていますが、実際のところ、実態は把握できていません。当事者であるかつての駅の子たちが、長い間、自分たちが経験した悲劇について口を閉ざし続けていたためです。

単純に、自分たちの見てきた地獄、悲惨な記憶を思い出したくないと言う感情があったことは容易に推測できますが、それ以上に、仕事を見つけたり結婚したりする上で、差別の対象になることを恐れていたのです。かつての駅の子の中には、結婚相手に、自分が駅に住んでいたことを生涯打ち明けることがなかったという人もいました。

長い長い月日が経った今だからこそようやく、かつての駅の子たちは、勇気を振り絞って辛かった胸の内を打ち明け、声を上げ始めたのです。

かつての駅の子は言います。

「長い年月が経った今でも、駅の子は不幸な子供のままなのだ」

戦争のしわ寄せは、真っ先に弱者に及びます。生き残った子供の人生にも大きな傷跡を残してしまうのが戦争なのです。その影響は長く長く尾を引き、決して癒えることはありません。「自分たちのような子供がいたことを忘れないで欲しい」…それは、かつての駅の子たちが私たちに託した最後の願いなのです。

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プレビュー画像: / ©Twitter/tabaco_war