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トリビア

【ヒトラーに抵抗した一人の女子学生】ナチス政権下自由のために戦った彼女は1943年2月22日断頭台にいた その強靭な精神と信念が胸に突き刺さる

「自分らしく生きるために信念を貫く」ということは、個人の意思が重んじられ、それぞれが生きやすい社会であれと多くの人が願う現代でさえ、様々なハードルがあり容易ではありません。

1943年2月22日、第二次世界大戦禍のヒトラー率いるナチス政権の下、ドイツ・ミュンヘンで21歳だったゾフィー・ショルは自身の信念を貫いたが故に国家反逆罪による死刑を宣告されました。

21歳の彼女はなぜ死刑という最も重い罪に問われたのでしょうか。

ミュンヘン大学で生物学と哲学を専攻していたゾフィーは、同じくミュンヘン大学医学部に通う兄のハンス・ショルとその友人クリストフ・プロープストとともに「白バラ抵抗運動」を展開。「Flugblätter(ドイツ語でチラシの意)」と呼ばれるビラを配り、「人間の権利と自由を取り戻し、戦争を終結さよう」と、非暴力の方法で国民にナチスへの抵抗を呼び掛けたのです。

密告者によりゲシュタポ(秘密警察)へ通報され逮捕されるリスクがあったにもかかわらず、ゾフィーはその活動を止めることはありませんでした。リスクを犯してまでゾフィーが守りたかったもの。それは、彼女が心の奥底から欲した「人間が生きるための自由」でした。

<リベラルな両親の元で育ったゾフィー>

1921年5月9日、ドイツ南西部のシュヴァーベンで5人兄弟の4番目として生まれたゾフィー。プロテスタントであった両親は、個人の自由や文化的多様性を尊重するリベラルな考えを持ち、子供たちにもその教えを説いていました。

しかしやがて1933年にヒトラーが政権を掌握すると、ゾフィーや他の兄弟たちにもその影響を及ぼします。

<ナチス組織とゾフィー>

ドイツは第一次世界大戦の敗北により、ワイマール共和国が成立。近代的民主主義の先駆けとなる国の誕生でした。しかし、後の世界恐慌でドイツ国民はどん底の経済不況を味わうことに。そこに様々な社会問題を国が中心となって解決すると掲げたナチ党が台頭したのです。このことは、国民にとってこれまでのワイマール共和国からは反動的かつ革命的であっただけでなく、非常に魅了的なものでした。それは大人だけでなく、若い世代や子供たちにとっても同じだったといいます。

「新しいドイツ」への希望に、ゾフィーも他の国民同様に魅了された一人でした。1934年ナチスの未成年女子統制を目的としたナチス組織であるドイツ女子同盟(BDM)に入団し、リーダーの一人として活動するほどに。両親は子供たちがナチスの思想を持つことに反対していましたが、当時のゾフィーたちにはナチスの本当の恐ろしさがまだわかっていませんでした。しかし徐々にゾフィーはナチスに疑問を抱き始めるのです。

「なぜユダヤ人の友達はBDMの活動に参加できないのか、なぜユダヤ人作家の本を読むことが禁止されているのか」

これまで言わば、熱狂的にナチス組織の一員として活動してきたゾフィー。しかし、次第に見えてきたナチスの暴力、そしてナチスへの同調や服従への圧力は、彼女にとっては耐えがたいものだったのです。そしてゾフィーはナチス組織から距離を置くようになりました。

<心の奥底から自由を渇望>

1940年に大学入学試験を受けたゾフィーでしたが、当時義務付けられていた国家労働奉仕のため、1942年の3月まで保育園や農場で服務することに。そこでも行われたナチスの思想教育や軍事訓練の日々。それらをなんとかやり過ごしたゾフィーは日記にこう記していました。

「心が飢えるような思いだった」

ナチス思想を強制させられる日々、精神的な自由を制限されたゾフィーはこうして、ナチスへ懐疑的になり、そして対極の反ナチス主義へと変わっていったのです。

そして戦禍が進むにつれ、ナチスによる東欧での大量虐殺やユダヤ人迫害、個人への尊厳を忘れ、非人道的で自由を奪われることが当たり前となった日常は、ゾフィーにとってそのまま遣り過ごせるものでは到底ありませんでした。その感情は、当時兵士として戦争の前線に送られていたゾフィーの兄ハンスや大学の友人クリストフ・プロープストたちも同じだったのです。

<白バラ抵抗運動への参加>

1942年5月ミュンヘン大学に入学したゾフィーはその夏、兄を中心とした「白バラ」によるビラを使った抵抗運動のことを知った時、躊躇することなく白バラに参加することを決意。そこには、ゾフィー自らが求める自由への渇望や人間の尊厳だけでなく、彼女の中にある感情があったと言われています。

少女時代ナチ組織において積極的に活動していた過去…。ゾフィーは自身が少なくともナチス思想の扇動活動に寄与していたことに罪悪感を感じていたのです。ゾフィーにとって、ナチスが行う非人道的な残虐行為に目を逸らすということは、彼女自身が人間の自由と権利を奪うことを受け入れたということに等しく、それは彼女の良心を苦しめたのです。日を追うごとにその感情は彼女の中で大きくなる一方でした。

ナチス政権下、その残虐な行為を受け入れ難く思っていたとしても、多くの人は声をあげることはありませんでした。

なぜならそれは「死」を意味したからです。

しかし、誰もが生き延びるために抵抗するという選択肢を放棄した中でゾフィーは、ユダヤ人大量虐殺を、ドイツ人に対する自由抑圧を、戦争の狂気を非難し、毅然としてヒトラーに抵抗することを決意したのでした。

<白バラ抵抗運動>

白バラ抵抗運動のメンバーは、ミュンヘン大学の大学生だったゾフィーとハンスのショル兄弟、クリストフ・プロープスト、アレクサンダー・シュモレル、ヴィリー・グラフと同大学教授だったクルト・フーバーの6名。彼らが作成したビラは全6枚。最初の4枚は兄ハンスとクリストフ・プロープストにより作成されたと言われ、ドイツ人文主義の礎ともなったゲーテやシラーの言葉やキリスト教の教えを引用し人々へ訴えたのです。謄写機を使って刷られたビラは1枚1枚封筒に入れられ、電話帳から住所を書き写し、作家、教授、本屋、友人や仲間の学生に送られていました。

「我々は黙って見過ごさない、我々はあなた方の後ろめたい良心であり続ける、白バラはあたながたをこのままにはさせておかない!」

1943年1月、ゾフィーは多くの人に呼びかけるため、またナチスに彼らが広範囲で活動していることを知らしめるため、5枚目のビラを大量にカバンに詰めてミュンヘンを後にします。ミュンヘンから北上しアウグスブルクへ、そして西へ向かいウルムへ。ビラを各地で郵送、または友人へ手渡しし、できる限り広範囲に彼らの訴えを届けようとしたのです。ビラは白バラを支持する人々によって、南西部のシュトゥットガルトまでたどり着いたと言います。

この時準備されたビラは全部で1万枚から1万2千枚と言われ、全てが手作業で行われました。この膨大な量のビラを郵送するための封筒や切手の手配、また郵送作業と言った一連の作業は、決して他人に知られてはならないものでした。彼らは物資の調達においてゲシュタポに密告されないよう、細心の注意を払いながら、店から店を渡り歩き手配したのです。

<最後になった6枚目のビラ>

そして1943年1月下旬、スターリングラード攻防戦でこれまでにない劣勢に追いやられたドイツ軍に国民が不安を抱える中、ゾフィーたちはこれをチャンスと見て6枚目のビラを学生たちの自宅付近に配布にでます。

「清算する日が来た。我々が今まで苦しんできた最も忌まわしい暴虐行為を、ドイツの若者が清算する日が。学生たちよ!ドイツ国民の目は我々に注がれている!国家社会主義というテロ支配を精神の力で、打ち破ろう!」

そして運命の2月18日。6枚目のビラの残りをゾフィーとハンスは大学構内でばら撒くことに。講義室の前や廊下にビラをおき、そして階段を上がり講堂の吹き抜けに向かってゾフィーはビラをばら撒いたのです。

これがゾフィーにとって最後の活動となりました。

ナチス党員で大学の職員だった人物に見つかり、ゾフィーとハンスはその場で拘束されゲシュタポによって逮捕。同じくビラを作成したとしてクリストフ・プロープストも逮捕され、3人は異例とも言われるスピードで4日後の22日、国家反逆罪によるギロチンでの斬首刑を言い渡されました。

死刑はその日のうちに執行されました。

ゾフィーは「自分の行いに後悔はない」と尋問でも毅然と発言をしました。最期の瞬間まで自分の良心に従い、彼女が信じた人間の権利と自由と、そしてナチスが犯した過ち、戦争の無意味さに背を向けることなく立ち向かい、その生涯を終えたのです。

ゾフィーが法廷で最後に裁判官たちに放った言葉が、彼女の強靭な精神を物語っています。

「今にあなたがここに立つわ」

後に司法テロと言われるほど理不尽であったナチス政権下の法廷でも、彼女はその信念を曲げることをしませんでした。自分を処刑しても、やがてナチスが犯した罪は裁かれると確信していたのでしょう。兄ハンス、クリストフ・プロープストも同日同様にギロチンによって処刑された後、残る白バラメンバーも逮捕され、いずれも死刑判決が下りました。後に彼らの最後のビラとなった6枚目のビラは、連合国軍がドイツに降伏を呼びかける際に使用されたと言われています。

ナチスという恐ろしく強大な権力に抗うことを、多くのドイツ国民が目を背けた中で一人の人間として決して諦めなかったゾフィー。

戦後のドイツ基本法(憲法)1条には、人間の尊厳が国家によって尊重・保護されること、そしてドイツ国民は、人間の尊厳を世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認めるということが明記されています。

この第1条はナチス・ドイツが犯した罪への反省と、そして何より命と引き換えに抵抗したゾフィーたちが後世にのこした遺産とも言えるでしょう。

「人間の尊厳」のために戦ったゾフィーの根底には、人としての良心がありました。それは、いつの時代においても私たちが生きていく上で決して忘れてはならないものなのではないでしょうか。

最後まで自分を貫き生きたゾフィー。その命の犠牲は現代に生きる私たちに、多様性を認めながら個々が自由に生きる権利をもたらしてくれています。そして、私たちはそれを次世代につないでいかなければなりません。

ゾフィーの最期の日々を詳細に綴った映画、「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」には逮捕後から裁判時の詳細なやりとりが記録されています。興味を持った方はぜひ、ご覧になってみてください。

プレビュー画像:©︎Pinterest/matbo2