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アメリカ兵との間にできた子供を手放した日本人女性。しかし約30年後テレビで見た息子の姿に泣き崩れた

「必ず迎えにくるから」

それが4歳の義昭が母と交わした最後の約束でした。

William holding hands

終戦まもない1947年、後田義明は徳島の山村で生まれました。母は日本人、父はアメリカ兵。いわゆる「GIベビー」、戦争混血児です。強姦され義昭を身ごもった母の次恵は自殺も考えるほどに思い悩んだ末、出産します。

しかし貧しい暮らしと周囲からの偏見の目に苦しんだ母はついに、義昭を手放すことを決意。親や親族から見捨てられた混血孤児のための孤児院として、三菱財閥の令嬢・澤田美喜が私財を投げ打って設立した「エリザベス・サンダース・ホーム」に義昭を預けることにします。

「同じ環境の子供たちを受け入れるこの施設に預ければ、きっとこの子はお腹いっぱい食べれるし、友達もできて偏見にも晒されることなく、より幸せな生活がおくれるはず」そんな思いから次恵は息子をエリザベス・サンダース・ホームに託したのでした。

エリザベス・サンダース・ホームで澤田先生らが見守る中、友人に囲まれ伸び伸びと育った義昭。11歳で養子としてアメリカ人家庭に引き取られ、渡米します。アメリカでの生活に馴染みやすいよう、スティーブ・フラハティと改名し、温かい家族と親友にも恵まれ、その親しみやすい性格から多くの人々に愛されました。

やがてスティーブ(義昭)は持ち前のスポーツの才能をめきめきと開花させます。身長約170センチとアメリカでは小柄ながらも、フットボールとバスケットボール、野球に優れ、高校ではフットボールの花形選手として、地元新聞でも取り上げられるほど。特に、野球に関しては高校在学中から大リーグ球団のスカウトが注目するほどの実力でした。

ハンサムでスポーツ万能、学年きっての人気者として女子生徒の憧れを一身に集め、校内でも評判の美人生徒と付き合う…まさにアメリカのハイスクールドリームの王道を極めたかのような学生生活を満喫するスティーブ。

野球の奨学金を得て大学に進学、または大リーグのメジャーリーガーへの道。将来の栄光は約束されたかのような、前途洋々に見えたスティーブの未来でしたが、彼の選んだ道は意外なものでした。

志願兵として米軍に入隊し、ベトナム戦に赴く道を選択したのです。

Vietnam War 1966

なぜ輝かしい未来に背を向けて、一兵士としてベトナム行きを志願するのか? スティーブの決断に驚いた家族や友人は考え直すよう説得しました。

「アメリカは僕を受け入れてくれた。だから、僕もアメリカ人としての義務を果たすべきだと思っている」

周囲の反対を押し切り義昭は米軍に入隊。1968年10月、兵士として南ベトナム北部に派兵されます。

スティーブを我が子のように可愛がっていた叔父のロンは、なぜ彼がアメリカ兵として志願したのか心当たりがありました。高校卒業を間近に控えたある日、スティーブは交際相手の父親から呼び出されていたのです。

「ステイーブ、君は黙って聞いていればいい。君が娘と会うのは今夜が最後だ。私は寛大な男だ。だから娘が君と付き合っていたことは知っていたが今まで黙っていた。多感な時期の娘を傷つけたくなかったからだ。しかし、高校も来週で終わる。これから娘の新しい未来が始まるのだ。娘の未来に君はふさわしくない。なぜふさわしくないのだと、君は問い返したいだろう、しかし、私はそれを口に出して言うつもりはない。帰りたまえ」

かつて日本で「合いの子」と蔑まれたように、アメリカでは黄色人であることに加え、敗戦国の日本人として差別を受ける側であることに変わりはなかったのです。

約束をしたきり迎えには来なかった母。そして完全にアメリカ人になれきれない自分…アメリカでアメリカ人として受け入れてもらうためには、この国に忠を尽くすしかない。つまり、アメリカ兵士としてベトナム戦争で戦うことでアメリカ人としてのアイデンティティが確立できる。そんな思いからスティーブが入隊を決断したのも不思議ではありませんでした。

American Flag

また、スティーブにはもう一つの目的がありました。「軍に入隊後の6ヶ月目にとれるR&R(リラックス&レクリエーション)」という旅費サポート制の休暇を利用して日本を訪れ、自分のルーツと向き合おうと考えていたのです。エリザベス・サンダーズホームの澤田先生を訪ねて母の消息を尋ねる予定でした。

しかし、スティーブが再び日本の地を踏むことは叶いませんでした。

1969年3月25日、日本行きを実現させる直前にスティーブは北ベトナムのスナイパーの銃撃を受け、命を落としたのです。22歳の若さでした。家族や友人の嘆きは深いものでした。その死を悼むあまり、家族は主のいなくなったスティーブの部屋をそのまま何十年も手つかずで保管していたそうです。

そしてスティーブの死から43年後、北ベトナム兵士によって遺体から抜き取られていた手紙が遺族に返還されます。

スティーブが派兵された南ベトナム北部は北ベトナム軍との激しい紛争が繰り広げられている激戦地帯でした。ジャングルや深い草むらや密林に身を隠した北ベトナム兵との戦闘に疲弊する日々…常に死と隣り合わせの状況の中でも、手紙には家族を思いやる愛情深い言葉が溢れています。

「銃弾が頭をかすめた。こんなに恐怖を味わったことはなかったよ」

「多くの犠牲者が出た。負傷者や戦死者は増えるばかりだ。記憶から消し去りたいくらいだよ」

「素敵なカードをありがとう。惨めな気持ちがかなり和らいだよ。この血みどろの戦いを忘れることはできないと思う…マシンガンやRPGロケットでリュックがボロボロになってしまった」

息子・義昭の幸せを願い、エリザベス・サンダース・ホームに託した母の次恵が息子の辿った運命を知ったのは、彼の死後から9年後のことでした。

©️vimeo.com/Coal Powered Filmworks

4歳で手放した息子は、誰からも愛される魅力溢れる青年へと成長し、そして戦争で命を落とした。母はどのような思いでこの事実を受け止めたのでしょうか。

戦争によって生を受け、戦争によって死んだ一人の青年の物語。光と影に包まれた短くも濃いその一生は私たちの心を激しく揺さぶります。

※義昭のドキュメンタリーはこちらからも視聴できます。(英語音声のみ)

また、面髙直子氏の著書「ヨシアキ は戦争で生まれ戦争で死んだ」では短い人生を駆け抜けた義昭の生涯が描かれています。

プレビュー画像: ©️vimeo.com/Coal Powered Filmworks

アメリカ兵との間にできた子供を手放した日本人女性。しかし約30年後テレビで見た息子の姿に泣き崩れた