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えらい

33年前、当時44才の彼が 私たちの世界を第三次世界大戦から救った。

2017年の519日、一人の男性が誰からの注目もないまま静かに息を引き取りました。彼の名はスタニスラフ・ペトロフ。死は9月になるまで世間に知られることはありませんでした。

死の直前までロシア・モスクワ郊外の寂れたアパートに住んでいたスタニスラフですが、実は彼、およそ40年前に核戦争の恐怖から世界を救った英雄だったのです。

1983926日。この日、20世紀最大の危機が世界を襲っていたことはあまり知られていません。当時は冷戦の真っ只中、アメリカとロシアは少しでも相手を出し抜くべく自国内での核兵器の開発に全力を挙げていました。世界的な緊張感が高まるなか、各国はいつどこで戦争が始まるかわからないという恐怖に覆われていました。

ソビエト軍で中佐という立場にいた当時44歳のペトロフは、コードネーム「オコ」と呼ばれた早期警戒衛星をコントロールする管理センターで働いていました。早期警戒衛星とは核攻撃があった場合に検知することのできるシステムで、通常のレーダーによる監視に比べて10分以上早く攻撃を知ることができるようになります。とはいえ、当然攻撃そのものを防ぐことができるわけではなく、攻撃が始まった時に早く知ることができるだけです。つまりこの管理センターの目的は、万一攻撃を受けた際に迅速に反撃することでした。しかし、もしこのような双方の攻撃が実際に行われれば大量の死傷者が生まれることも明らかです。

その日、ペトロフは夜勤についていました。時計が深夜12時を回った直後、突然施設内に警報が鳴り響きます。ソ連に向けてアメリカがミサイルを発射したことを示す警告音です。館内の人々の視線は一斉にペトロフに集まります。というのも、当時のソビエト軍のルールでは、中佐が現場から上司へと報告することをもって反撃を開始することになっていたからです。当然そのような事態になれば数百万人単位の犠牲者が生まれることになります。

ペトロフはこの時考えました。百歩譲ってアメリカが攻撃してきたとして、突然たった1基のミサイルだけを発射してくることなどあるだろうか、と。

彼は最終的にこの警報が誤報であると判断し、警報を解除します。ところが、その直後さらにアラームが鳴り響き、今度はなんと4発のロケットが発射されたことを衛星がキャッチしたというのです。

しかし、この事態に及んでもペトロフは懐疑的でした。そして彼は結局、自分の直観に従って行動することを決心します。

「私は自分の経験を信じることにしました。私たちはコンピューターよりも正しい判断ができるはずだ、と。結局コンピューターだって、作ったのは私たちなんですからね」ペトロフは話します。

彼は再びこのアラームが誤報であると判断し、警報を解除。彼は後に、自分自身のこの時の行動が果たして正しいものなのだったかは未だに彼自身にもわからないと語っています。やがて、館内が騒然としたまま17分という時が流れました。ペトロフにとっては、自分がとんでもない過ちを犯したかもしれないという不安もあり、この17分間はまるで地獄のような時間だったそうです。その後、核弾頭を積んだミサイルは1発もソビエトへと向かっていないということが再確認されて、ようやくペトロフは安堵することができました。

後日分かったことですが、この時のアラームの誤報を招いたのは、このときたまたまかなり高い上空に出ていた雲に太陽の光が絶妙な反射角で当たり、結果としてロケットのような残影を衛星がキャッチしてしまったことが誤報の原因だったそうです。

「私の使っていた椅子は結構快適だったのだけれども、この時ばかりはなんだか肘掛けがすごく熱く感じたよ。足もかなり居心地悪かったがね。あの時、ああいう決断をしたというのは、私にとってもかなり冒険だったんだ。とにかく私は、第三次世界大戦を引き起こした張本人になりたくなかったんだろうな」

実際、核攻撃を伴う世界大戦が仮に発生したとすると、私たちが想像を絶するような結果を招くことになるのは明らかです。研究機関によるシミュレーションによると、その場合の死者は全世界で75000万人、負傷者は34000万人に上るという試算が出ているそうです。

ソ連が秘密国家であったこともあり、ペトロフのこの行動は長らく公開されることはありませんでした。彼自身、この夜の出来事は愛する家族にすら明かすことなく、自分の胸の内にしまったままいたといいます。結局このエピソードは、彼の上司だった人が1998年に手記を発表した際に初めて公に知られることとなりました。これによりペトロフはその英雄的な行動が広く賞賛されることとなり、様々な賞も受賞したそうです。ただ、彼自身は決して自分を「ヒーロー」だとは考えていないと話します。

「私は英雄なんかではない。ただ自分の職務を遂行していただけだからな。ただあの場にたまたま私がいあわせた、それだけさ」 

ペトロフは1984年に軍を退役後とある研究センターにて働き、引退後は妻の面倒を見ながら過ごしました。妻をガンで亡くした後は、最晩年を一人暮らしのままで慎ましく暮らしたそうです。

スタニスラフ・ペトロフは、自分自身は英雄と呼ばれたくないと考えていたものの、核戦争を防いで数千万人もの人々を救った彼の勇気ある行動はこれからも語り継がれていくことでしょう。皆さんもぜひ彼のエピソードを友達にシェアしてあげてください。