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えらい

日本に生まれた少年は肌の色でいじめられ母に当たり散らした 15年後の彼の姿を見たとき涙が止まらなかった

「一体どうして俺を産んだんだ」
淳(じゅん)少年は、いつも母親にそう当たり散らしていたそうです。

1984年、東京都大田区に生まれ、千葉県浦安市で生まれ育った彼には、人とは少し違うところがありました。それは、外見。

周囲よりも少し色黒な肌と縮毛のせいで、幼少の頃からからかいの対象になっていたのです。

Twitter/JUNSOEJIMA

小学校時代には、サッカーボールの的にされたり、上履きや教科書を隠されたり、仲間外れにされたり…日本で生まれ育った、いわゆる「純ジャパ」のハズなのに、まるでその輪の中に入れない。学校が怖くなって、心を閉ざして、休み時間の時はいつも教室の隅でじっと座っているだけの日々でした。

疎外感に耐えかねて、「学校に行きたくない」と母親に相談すると、返ってくる答えはいつも同じでした。

「人と違うということは、いつか必ず武器になるから」

淳少年はそんなことは信じられず、「俺の父親はどこにいるんだ」と母親に当たり散らしていたそうです。

淳少年は生まれてから、一度も父親に会ったことがなかったのです。父親がいたら、きっと自分のことを理解してくれるハズなのに…悩みは日に日に深まっていき、命を絶とうと考えたことすらあると言います。

そんな淳少年に転機が訪れたのは、中学生になった時でした。地元の中学校でひょんなことからバスケットボール部に入部。もともと体格の良かった淳少年でしたが、成長期に入ってさらに身長がグングンと伸びていき、チームで頼りにされる存在になっていったのです。

人生で初めて、人と違うということが活かせていると感じた淳少年。性格も徐々に明るくなっていき、「お前、黒いな」といじられると、「うん、ちょっと日サロで寝過ぎちゃって」…そんなギャグで切り返せるまでになったのです。

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バスケットボールで自信を取り戻した淳少年、その後もバスケ一筋で高校、大学と進学していきました。しかし社会に出る頃になると、また大きな困難が降りかかります。

「え?英語話せないの?」「黒人なのに、リズム感が全然ないね」

他の人と違う外見を活かして、モデルや俳優としての仕事を始めた淳青年に浴びせかけられた言葉の数々です。外見から、勝手な期待をかけられて、落胆される…そんな日々の繰り返しに、幼少期の嫌な記憶がまた蘇ってきます。

ふたたび暗く塞ぎ込んでしまった淳青年。オーディションに呼ばれても、仮病でずる休みするような日々が続いたと言います。

しかし数年間その葛藤を続けた結果、24歳のときにふたたび転機が訪れます。ある演出家に見出され、舞台で黒人の殿様役で出演することになったのです。淳青年がステージに登場するだけで、「なんで殿様がアフリカ系なんだ」と会場は爆笑の嵐だったそうです。それはアフリカ系であるという型にはめられた笑いだったかもしれませんが、自分は人に必要とされているとふたたび感じることが出来たのです。また、こういった肌の色の違いですら笑いに昇華させることのできる表現の世界に強く惹かれたのもこのときだったと言います。

Twitter/JUNSOEJIMA

居酒屋でのアルバイトと二足のわらじで芸能活動を続けていた淳青年でしたが、29歳の時、所属していた事務所の社長が「本気でこの道を進んでみないか」と背中を押してくれました。

こうして誕生したのが、タレントとしての副島淳(そえじま じゅん)さんです。アメリカ日本という二重のバックグラウンド、195センチ(アフロ込みで210センチ)の破格の存在感、そして何よりも明るいキャラクターを活かして、俳優や情報番組のレポーターとして大活躍しています!

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「外国人リポーターとして登場したのになぜか英語が話せない」「極端にステレオタイプなまでの黒人を演じる」など、外見と内面のギャップを自ら進んでネタにしていき、そのお茶目なキャラクターは一瞬でお茶の間にまで浸透しました。かつて命を絶つことまで考えた少年は、今や引くてあまたのマルチタレントにまで成長したのです。

しかし依然として、顔も名前も知らないアメリカ人の父親のことは気になり続けていた副島さん。とある番組の企画で、自分の父親探しに挑戦することになりました。父親のことを知りたいと意識し始めたのは、父親も自分と同じ芸能の仕事をしていたと聞いた時だったそうです。母親の証言をもとに番組スタッフが捜索していくと…なんと見つかりました!副島さんの父親は、ウィリー・ドーシーさんという名前の、日本で活躍していたアフリカ系の俳優だったのです!

同時に、すでにドーシーさんが他界していることを知らされ、落胆する副島さんでしたが、あまりにも意外な2つ目の事実が発覚します。

なんと副島さんには母の違う兄がいたのです。その名も高橋マイケル

これを聞いて副島さんは絶句します。高橋マイケルと言えば、日本バスケットボール界の紛れもないレジェンド。副島さん自身も、長い間憧れ続けていた選手だったのです!

ロサンゼルスに住む実の兄とオンラインで言葉を交わした副島さん…孤独だと思っていましたが、家族の存在をしっかりと感じ取り、号泣を禁じ得ませんでした。

いかがでしたか?今、もし皆さんが、人と違っていて、周囲にうまく馴染めないと感じていても、決してあきらめないで!いつかその違いが、長い時を経て、必ずあなたのかけがえのない宝物になるハズです。長い時を経て自らの道を切り開き、家族の絆を取り戻した副島淳さんのストーリーが、私たちに教えてくれます。

プレビュー画像:  © Twitter/ JUNSOEJIMA