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おもしろ・びっくり

【愛の告白】戦国時代、美少年に宛てて書かれた1通の手紙。差出人を知って、心臓が口から飛び出るかと思った 。

そもそも手紙というものは、その多くが他人に読まれることを想定して書かれていないため、宛てた人以外の誰かに見られると恥ずかしい内容のものが少なくありません。「浮気はしていません、嘘はついていません…」そう綴られたこちらの手紙の差出人も、まさかその手紙が後世、多くの人の目に触れることになるなど想像もしていなかったはず。

Twitter/oishiitakuan1

手紙の受取人の名は春日虎綱(かすが とらつな)、一般的には高坂昌信(こうさか まさのぶ)という名で知られる戦国時代の武将です。「逃げ弾正」との異名でも知られた昌信は、女性にモテ過ぎて逃げ回っていたことからそう呼ばれていたとの説があるほどのイケメンでした。そんな昌信が数え年で16歳のとき、彼を近習に召し立てたのが日本人ならその名を知らない人はいないであろう戦国時代の名君・武田信玄だったのです。

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主従関係にあった武田信玄と高坂昌信は強い絆で結ばれており、その信頼関係は男色関係へと発展します。武士同士の愛を衆道と呼んだ当時、男性同士が体の関係を結ぶことは、決して珍しいことではありませんでした。そんな武田信玄と高坂昌信の間で交わされたのが、後に「武田晴信誓詞」と呼ばれるこの手紙です。当時数えでまだ25歳だった信玄が、わずか19歳の昌信に綴った問題の手紙をまずご覧ください。

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原文:

一、弥七郎に頻(しきり)に度々申し候へども、虫気(むしけ)のよし申し候あひだ、了簡(りょうけん)なく候。全くわが偽(いつわり)になく候。 
一、弥七郎伽(とぎ)に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんずく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音(ちいん)申したきまゝ、色々走り廻り候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。 

この条々、いつはり候はば、当国一、ニ、三明神、富士、白山、殊(こと)に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、諏訪上下(すわかみしも)大明神、罰を蒙(こうむ)るべきものなり。よって件(くだん)の如し。
内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あひだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候。  

七月五日
晴信

春日源助との(恐らく高坂昌信と思われる)

現代語訳:

「弥七郎にはたびたび言い寄ったけれど、腹痛だからと断られ、なにもありませんでした。絶対に嘘ではありません。
弥七郎に夜伽(よとぎ)をさせたことなどありません。この前もさせていません。もちろん、夜もだけではなく昼もさせたことはありません。もちろん、今夜など決してありません。
このことをあなたに分かってもらいたくて、色々と手を尽くしているのに、かえって疑いをかけられて、ほとほと困っています。

もしこの手紙に書いてあることが嘘だとしたら、神の罰でもなんでも受けるつもりです。本当です。本当だったら正式な誓いの紙に書くべきですが、今夜は「庚申待ち」でみんな起きているので、他人の目もありますから、明日もう一度、正式な誓いの紙に書くつもりです。」

七月五日
晴信

春日源助との

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信玄が弥七郎という若い小姓と体の関係に至ったのではないかと嫉妬している昌信をなだめる文章。「何回か言い寄ったのか!?」とか「断られてなかったら、行為に及んでいたのか!」とか、ツッコミどころ満載の手紙ですが、若い美少年の気持ちが自分から離れていかないように右往左往する信玄の姿が目に浮かびます。

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信玄がアタフタして、浮気の汚名を晴らそうとしているようにも読めるこちらの手紙。家臣を大事にした忠君・信玄の気配りの心が表れているとも言われています。

いずれにせよ、主君にこんな必死な手紙を書かせるほど惚れさせた高坂昌信が、武田四天王のひとりとして後の世に名を残したのは、決して偶然とは言えない気がします。