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えらい

アメリカの女性たちはスクリーン上の日本人に会うために化粧して映画館に足を運んだ 世界で最高にモテた日本人はこの人だ

現在では渡辺謙さんや真田広之さん、菊池凛子さんなどを筆頭として、日本人俳優がハリウッドに進出していくことも、そう珍しいことではなくなってきました。(小栗旬さんもハリウッド版ゴジラの次回作に出演するんだとか)

ようやく日本の俳優も、ハリウッドで通用する時代になって来たか、時代が変わったなぁと、感慨深く眺めている人もいるでしょう。

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しかし、映画史を紐解いてみると、サイレント期のハリウッド、チャップリンが活躍していたのとほぼ同時期に、堂々とスターとして活躍した日本人がいたのです。

その名も、早川雪洲(はやかわせっしゅう)。

日本人の歴史上、最もモテたと言われているハリウッド俳優です。

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早川雪洲(本名・早川金太郎)は1889(明治22)年6月に千葉県千倉で、網元の子として生まれました。

海軍軍人を夢見ていましたが挫折し、1909年、21歳でシカゴ大学法制経済学部に留学するためにアメリカへ。

大学卒業前にロサンゼルスのリトル・トウキョウへ行き、日本人の劇団に入り徳富慮花の「不如帰」を演出・主演して大評判になり、次々にヒット芝居を上演していきます。

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この活躍に目をつけたのが、ハリウッド創世期の大物プロジューサー、トマス・H・インスでした。

本格的に俳優にならないかと打診された雪洲、映画界入りなどまったく考えていませんでしたが、自信満々でこう答えたそうです。

「私を主役にして、出演料は週給最低五百ドルほしい」

無茶な要求のようでしたが、意外にもインスはすんなりOK。こうして24歳の時、雪洲はアジア人俳優では最高のギャラで映画界入りすることになるのです。

そしてインスが製作した「タイフーン」(1914)に初主演し、この作品は大ヒット。続くセシル・B・デミル監督の「ザ・チート」(1915)で、人妻に焼きごてを押す冷酷な日本人プレイボーイを演じ、一躍、マチネー・アイドルへと躍り出たのです!

(※マチネー・アイドル=強いセックスアピールで女性たちを虜にするタイプの俳優)

その荒々しくも美しいセックスアピールと東洋的なエキゾチズムは、アメリカの女性たちを一瞬で虜にしてしまいました。

この作品をきっかけとしてパラマウント映画と最高額で専属契約を結び、雪洲が出演する映画が公開されるたびに、スクリーン上の雪洲に会うために女性たちは念入りに化粧して、派手な毛皮のコートを着て映画館を訪れたと言うのだから驚きです。

「ザ・チート」が公開されてからというものは、アメリカに住む日本人庭師や中国人商人は、女性たちからまるで雪洲であるかのように欲情した眼差しで見られるような事態まで起こり、日本大使館から監督のデミルに対して正式な抗議がなされるほどだったと言います。

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「ザ・チート」は日本では公開されませんでしたが、雪洲は日本人の残忍さを誇張して排日ムードをあおった売国奴として、日本の右翼系の団体からは激しく罵倒されました。しかしアメリカでは、男性的な魅力にあふれた雪洲の人気は高まるばかり。

日本からは「国辱スター」と呼ばれ、アメリカでは女性から大人気という、ねじれた構造に当惑していたことは想像にかたくありません。

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雪洲が苦しんでいたのはそれだけではありません。

大ブレイクしたとは言え、雪洲は東洋人的なステレオタイプを押しつけられることに関しては、やはり強いフラストレーションを感じていたようです。「ザ・チート」が公開された翌年には、映画ファン向け雑誌で「これまで演じてきた役は、どれも日本人を正しく描いたものとは言えません。すべて嘘ですし、間違った印象を与えてしまっていると思います」と心境を吐露しています。このあたりの事情は、現代でもまったく変わっていないと言えるでしょう。

そのフラストレーションから逃れるためか、1918年には自らのプロダクションを設立し、1922年まで22本の映画を製作しています。作品をより自分の手でコントロールしたいという願いのあらわれでしょう。

苦しみを抱えていたとは言え、全盛期の人気ぶりは、1917年当時、週7500ドルを稼いでいたことからも明らかです。当時、最も稼いでいた部類の俳優であるチャップリンやアラ・ナジモヴァでさえ週1万ドルだったと言うのですから、ほぼハリウッドのトップスター並に稼いでいたのです。

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しかし1920年代は、戦争の余波などもあり、アメリカで排日感情が高まっていた時代でもありました。1924年には移民制限法によって、日本人の移民は全面的に禁止されてしまうのです。

こうしたムードの中、作品の配給をめぐるトラブルにも見舞われた雪洲は、1922年に自分のプロダクションを解散、志半ばでハリウッドを去っていったのです。

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その後雪洲は、日本に帰国して、戯曲の公演を行うなど日本での活動の可能性を模索しはじめます。しかし、アメリカ時代から続く女性関係のトラブルなどに悩まされ続け、それから逃れるかのようにフランスへ渡ります。

やがて第2次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツによりフランスが占領下に置かれる混乱の中、ヴィシー対独協力政権に与することなく自由フランスのドイツ軍に対するレジスタンス運動にも協力。戦乱期をなんとか生き延び、結局はまた日本に拠点を戻して1950年代にかけて映画や当時普及し始めたテレビに出演し活躍しました。

1956年には、「戦場にかける橋」でハリウッド大作にも復帰。

「戦場の捕虜収容所の所長」という、どことなく人気最絶頂期の雪洲を思わせるような役柄を見事に演じきり、この作品の演技によってアカデミー賞助演男優賞にノミネートされましたが、受賞には至りませんでした。

 
このように栄光と挫折を繰り返した雪洲は、1973年11月23日に88歳でその波乱万丈の生涯を終えたのです。

かつて「国辱スター」と呼ばれた雪洲でしたが、日本のマスコミは「国際派俳優早川雪洲死去」とその死を大いに悼みました。一方アメリカでも、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにその名が刻まれ、永遠に記憶され続けていく存在となったのです。

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ハリウッドの映画業界では、身長差のある俳優同士の2ショットを撮る際に、背の低い俳優を踏み台に立たせることを「セッシューする」と言います。

これは圧倒的な二枚目を演出するために、雪洲がよく踏み台に乗せられていたことに由来していると言われています。自称173センチ(実際は168センチくらい)と、当時の日本人としてはどちらかと言えば大柄な雪洲でしたが、それでもやはりハリウッドの俳優とは体格差があったのでしょう。

また、意外にもあまり英語はうまくなかったとも言われており、サイレント時代であったからこそハリウッドで輝けたということは言えるでしょう。

このように、必ずしもすべての条件が整っていたわけではなかった雪洲。しかし、映画界入りした経緯を見れば分かるように、自信満々で、決して自分を安売りしなかったからこそその道は切り開かれました。日本人が海外進出していく上での重要なヒントが、雪洲の活躍からは見え隠れしています。

プレビュー画像: / © Pinterest/ fuckyeahsessuehayakawa.tumblr.com