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勇気をくれる

エイズに対する恐怖や偏見と闘った勇敢な少年ライアン・ホワイト

1990年4月、1人の少年が18歳という短い生涯の幕を閉じました。

彼の名前はライアン・ホワイト。血友病の治療のための輸血で当時まだ新しく未解明のウイルスが彼の体に注入されたのです。そのウイルスとはHIV/AIDSウイルスです。

1984年12月に、13歳でエイズと診断されたライアンは、故郷のインディアナ州コーコモで偏見の目を向けられ、激しい差別を受けます。しかし、少年とその家族は偏見と闘い続けました。このウイルス性疾患についての教育を充実させるために多大な貢献をすることとなった、少年と家族の物語をご紹介します。

Ryan White an American Teenager from Kokomo Indiana who became a national poster child for HIV- AIDS in the United States after failing to be re-admitted to school following a diagnosis of AIDS.

ライアンは、1971年12月6日に米国インディアナ州コーコモで生まれました。この聡明な少年は血友病を患っていたため、輸血による治療が必要でした。そして汚染された血液製剤からエイズに感染。日本でも非加熱の血液製剤による「薬害エイズ」が大きな問題となりましたが、ライアンも薬害エイズの初期の被害者のひとりだったのです。

1980年代に登場したこのウイルスと疾患は、当初は多くの偏見を持たれていました。まだ科学的に多くのことが解明されていない時期から、治療法のない「不治の病」ということが世界中の人々を恐怖に陥れたのです。また、エイズは同性愛者や薬物使用者に対する天罰だという偏見や、触っただけで感染するといった誤った情報を多くの人が信じていました。

ライアンが医師からエイズと診断されたのは13歳の時でした。その際、少年の余命はわずか半年と告げられました。ライアンと母親のジャンヌ、妹のアンドレアの3人にとって世界が一変したときでした。しかし、少年は死ぬまでにやるべきことはまだたくさんあると感じていました。学校を卒業することもそのひとつでした。

Ryan White and his mom

しかし、ライアンがエイズにかかっているというニュースは、コーコモの街中に野火のように瞬く間に広がっていきました。医師らは、通常の学校生活で他の学生がエイズに感染するおそれはないと発表しました。しかし、他の生徒の親たちは、ウイルスへの恐怖からライアンの復学を拒否。そして、教育委員会は、ライアンが学校に入ることも授業を受けることも禁止したのです。少年は母親のサポートを受けながら、この決定を裁判に持ち込み、コーコモ市を訴えました。

9ヶ月という長い訴訟の末に、ついにライアンは勝利し、復学が許可されます。しかし、そこでも温かく迎え入れられたわけではありませんでした。

ライアンと妹のアンドレアは、他の生徒から罵声を投げられ、唾を吐きかけられ、ライアンの学校のロッカーには卑猥な言葉がスプレーで書き込まれました。母親のジャンヌも、買い物中に店から追い払われたり、道端で敵意を向けられるなどいわれない迫害を受けます。結局、一家はコーコモを離れ、インディアナ州のシセロに引っ越すことになりました。

新しいこの街では、学校でエイズに関する正しい教育がなされていたため、ライアンは握手で歓迎され、学業に専念できることになります。ライアンは教育と知識によって差別をなくせることを身をもって理解したのです。

「(コーコモの人々が僕を)どうしてそんなに怖がったのか?僕が他の人とそれほど違っていなかったからかもしれません。ゲイでもないし、麻薬にはまってたわけでもない……。僕はコーコモ出身の普通の子どもでした。そのことが余計に怖かったのでは?」ライアンは、当時のインタビューでこう語っています。

終末期の学生が故郷を相手に闘う姿は、メディアに密着されました。エイズ患者の権利を訴え、差別と闘う少年として大きな注目を集めました。その後も数え切れないほどのメディアの報道が続きます。ライアンは新聞取材やテレビ出演を通じて、人々を啓蒙し、エイズ患者に対する差別や偏見をなくすことに多大な貢献をしました。そのなかで、エルトン・ジョン、チャーリー・シーン、マイケル・ジャクソンなど多くの著名人がライアンの闘いに共鳴し、彼を支援しました。

Marlee Matlin, Ryan White, Charlie Sheen

ライアンは、エイズと診断されてから5年半後の1990年4月、合併症により18歳の若さで亡くなりました。エイズ患者に対する差別との闘いでライアンに寄り添い、一方で良き友人となっていた歌手のエルトン・ジョンは、危篤のライアンの見舞いに駆けつけ、家族とエルトン・ジョンが見守る中でライアンは息を引き取ります。ベッド脇に置かれた音楽プレーヤーからは、ライアンの希望でマイケル・ジャクソンの『Man In The Mirror』が流れていました。

2019年のインタビューで、エルトン・ジョンは、ライアンの若く悲劇的な死をきっかけに断酒し、それ以来、酒を飲んでいないと語っています。

ライアンの死から4カ月後、米国議会は低所得者や保険に加入していないエイズ患者とその家族を支援する法律「ライアン・ホワイト・ケア法」を可決しました。

ライアンの闘争とエイズに関する教育活動は、80年代と90年代の世界を形作り、エイズに対する人々の理解を深めることにつながりました。ライアンの短くも凝縮された18年の生涯は、彼の後に続く何百万人ものHIV/AIDS患者のより良い未来への道を切り開いたのです。

2021年12月、生きていれば50歳の誕生日を迎えたライアンを多くの人がソーシャルメディアで偲びました。

彼の死から30年。歴史が繰り返すように、未知で新しい脅威に対する人々の恐怖心が、差別や偏見を生みだしている様子を私たちは目にしています。不安や恐怖に動かされるのではなく、正しい情報を見極め、冷静に判断することが、差別や偏見に呑み込まれない唯一の方法です。現代に生きる私たちは、勇敢なライアンの闘いをもう一度想い出すべきなのかもしれません。

出典: people

プレビュー画像: © Imgur / bradmartin1975