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トリビア

【伝説のパンパン「ラクチョウのお時」】「こんな女に誰がした」時代に翻弄されながらも懸命に生きようとした彼女の言葉が胸に刺さる

「こんな女に誰がした〜♪」きっと誰もが耳にしたことのあるこのフレーズ。終戦間もない1947年に発売され大ヒットした「星の流れに」の一節です。

戦後、日本が最も貧しかった時代。戦争により家族や家を失い、「ガード下の女」(街娼)として生きるしかなかった女性たちの嘆きや、やるせない思いが歌には込められています。

パンパンと呼ばれた女性たち

当時、生きるために「夜の女」として街頭に立つ女性たちは侮蔑的な意味合いを込めてパンパンと呼ばれていました。戦後貧しい日本とは対照的に、豊かさの象徴でもあった主に米国進駐軍兵士の相手をすることで、彼女たちは必死に貧困から脱しようとしていたのです。

パンパン(パンパンガール)と呼ばれた女性たちは主に10代後半から20代前半が大変を占め、中には主婦もいました。食べるものにも事欠く時代、夜の女性として生きる道を選ばざるを得なかった彼女たちの身の上は様々でした。

戦死や空襲により家族を失い天涯孤独の身となった者、或いは家族を養うために他になす術がなかった者、とにかく貧しさから抜け出したい者、進駐軍兵士から暴行を受けたことで家族から拒絶され帰る家を失った者など、1947年時点の推計では東京に約3万人、日本全国では合計約7万人のパンパンが街頭に立って客を引いては生計を立てていました。

パンパンと呼ばれた女性たちの多くは、夜の街に立ち不特定多数の連合国軍兵士を客としている街娼を指しており、より経済的に豊かな上級将校などの特定兵士と専属の愛人契約を結んでいた女性は「オンリー」または「オンリーさん」と呼ばれていました。

また白人を専門に相手をする「白パン」、黒人を専門にする「黒パン」など、パンパンを分類する用語も使い分けられていました。

伝説のパンパン「ラクチョウのお時」

伝説的パンパンとして名前が挙げられるのが「ラクチョウのお時」です。

戦後間もなく有楽町のガード下に集い、縄張りを守るため派閥を組み団結していたガード下の女たち=パンパンたちをまとめるリーダー的な存在で、「お姐さん」と呼ばれパンパンから慕われていました。初代リーダーの夜嵐アケミの妹分として、「ラクチョウのお時」(本名: 西田時子)は有楽町、通称ラクチョウに集う推定200人のパンパンをとりまとめていました。

ラクチョウのお時(以下、お時)を一躍時の人として世間に知らしめたのが、1947年(昭和22年)4月22日の東京放送局(NHK)のラジオ番組「街頭録音」で放送された街頭インタビュー「ガード下の娘たち」でした。

(画像上は昭和20年、有楽町のガード下で煙草を吸うパンパンの女性)

お時をインタビューした藤倉修一アナウンサーによると、「背が高く、水兵風の濃紺のズボンと薄紫のセーターを着て、髪は黄色のバンドで束ね、顔は美しく端正で、肌は透き通るように白く、唇は真っ赤に塗っている」と描写されており、まるで宝塚の男装の麗人のような颯爽とした姿は、貧困に喘ぐ戦後間もない日本では際立って目を惹くほどに、美しく洗練されていました。

新聞社の者と名乗る藤倉修一アナウンサーのインタビューに対し、お時は音声を隠し録りされているとは知らず、応じます。

「…わたし…わたしはね、らくちょう(有楽町)のおときという不良少女、まあぐれんたいね、この辺りの女親分”夜嵐あけみ”姐さんとお盃を交わした妹分ですの…妹たち(パンパン)のことを話すんですか…そうね――、このらくちょうだけで百五十人位、ば新(新橋)や、だ神(神田)野がみ(上野)を合わせれば東京全部で千人くらいいるでしょう」

「ここの生活を三月続けたら、もう決して救われないわね。病気にはなる、サツ(警察)にはあげられる。だんだんとハクがついてくると、自分は一生堅気にはなれないとヤケになるのね可哀想なのよ本当は寂しいんだからね、だからいつでも大勢集まって虚勢を張って騒いでいるのよ…家庭や世間がもっと温かい気持ちで面倒見てやればあの娘たちの半分以上は立ち直ることが出来るのよ、わたしはそう思うわ…」

「そりゃ、パン助は悪いわ、だけど戦災で身寄りもなく職もない私たちはどうして生きていけばいいの、好きでこんな商売をしている人なんて何人もいないのよ、それなのに苦労して堅気になって職を見つけたって、世間の人はあいつはパン助だって指さすじゃないの。私は今までに何人も、ここの娘を堅気にして送り出してやったわよ…それが…みんな(涙声)いじめられ追い立てられて、またこのガード下に戻ってくるじゃないの…世間なんていいかげん、私たちを馬鹿にしてるわよ」

(画像上は性病検査のため、街頭から連行される兵士と接触がある=パンパンとみなされた女性たち)

ときおり、その美しい顔を自嘲するように歪めながらお時はガード下の女性たちについて語りました。インタビューの途中で、お時は当時パンパンの間で流行していた歌謡曲「星の流れに」の一節を口ずさみます。ラジオで彼女の歌声が流れたことにより、同曲のヒットのきっかけとなったと言われています。

(画像上は昭和21年、夜の街で米兵を待つパンパンの女性)

隠し録りされた自分の声がそのまま放送されるとは知らず、街娼として夜の街に立つ女性たちの苦しみや葛藤を時折り涙声になりながら訴えるお時。足を洗い更生しようと、就職先を見つけても、職場で後ろ指をさされ、いじめられ、結局は夜の街に戻ってしまう…お時の言葉の端々からパンパンとして生きる女性たちの苦悩と悲哀が伺えます。

しかし翌日、お時はおでん屋のラジオから聞こえる自分の声に愕然とします。最初は隠し録りされた音声をそのまま放送されたという事実に腹が立ったものの、自分のあまりにも荒んだ様子の口調と話し方にショックを受け、更生を決意します。

全国に流された街頭録音のラジオ放送は大きな反響を集め、「ガード下の娘たち」の境遇に多くが同情の声が寄せられました。

更生を決意、お時のその後

この放送から9ヶ月ほど経った1948(昭和23)年1月14日夜、ラジオで社会探訪「ガード下の女後日談」が全国に放送されました。前回の放送でインタビューをした藤倉修一アナウンサーのもとに届いたお時からの手紙が後日談として紹介されたのです。

「ラジオから流れる自分の声を聴いて私はショックをうけました。その声はまるで『悪魔のよう』で、それがきっかけで私は通りに立つのをやめて、ある人の紹介で職をみつけました。せっかく堅気になったけれど、世間はまだ私をつめたい眼でしか見てくれない。歯を食いしばってマジメに生きていこうとするのだけれど…しょっちゅう挫けそうになるけれど、がんばろうと思っています」

元パンパンであることを負い目に感じ、世間の冷たい視線に挫けそうになりながらも、「もう夜の街には戻らない、絶対に更生するんだ」と自分に言い聞かせ、お時が懸命に更生の道を歩んできた様子が伺えます。

月給1500円の女子事務員。「ラクチョウのお時」の頃の、1日の収入にも満たない額でしたが、堅気になり人生の軌道修正をすると誓ったお時には十分な金額でした。

この後日談放送は再び大きな反響を呼び、全国から激励の手紙が藤倉アナウンサーを通じで届けられました。藤倉アナウンサーから手紙を受け取った際、にお時はこう語っています。

放送以来さわがれて市川あたりでは道を歩いているとゾロゾロ子供や大人がついてくるの。このごろはマスクして眼鏡をかけて歩いてんのヨ。勤め先はいま原料難で休んでいて苦しいけれど、意地でもラクチョウへ戻ることはできないわ。同情して下さる世間の人に対しても、私自身にとっても…

同年3月に別の記者の取材に対しても、お時は更生のきっかけとなったラジオ放送を聞いた当時心境から、懸命に自身を鼓舞しながら更生の道を歩む様子を語っています。

「わたしたちが、なにも知らないで、いい気になって喋った翌日、それが放送されたのです。おでん屋でお茶を飲みながら、それを聴いたわたしは、最初腹が立ちました。誰がよろこんでこんな生活しているものがあるって。然しアナウンサーが、この娘さんたちが一日も早く更生しますように祈る――っていったとき、そうだ、この機会に更生したい、と強く思ったんです…あの生活から浮かび上がろう、みんなも浮かび上がらせようという考えはあったんです。放送があってまもなく、私は国府台病院へ入院しなけりゃならん体になっていたのです。この病院に約一か月いましたが、その間にわたしはつくづく考えたのです。これまでに幾人もの娘が更生を思い立ちながら舞い戻ってくる。それが私には解らない。社会の風の辛さがどんなものか、それを身で体験して後に、彼女たちを更生させなければほんとうではないんだ…ということを…警察(または市川職員)から今の会社の社長さんに紹介していただいて、去年の7月退院すると、すぐ勤めさせていただいたんです…仕事の上では別に苦痛はありません、ただ伝票の整理か帳簿の記入、電話の受付ぐらいのことですから。…工場には30人ばかり人がいて、女の人もいます。事務所には10人くらいで、女はわたし一人です。あんな過去を持つ自分として、しじゅう周囲から、そうした目で見られているような気がして、ひがんではいけないと思いながらも気持ちのうちではいつも悩んでいるのです。そんな弱いことじゃ更生出来ない、という社長の激励を、いつも気持ちで感じては頑張っているのです。寮の生活は、工場の女の方と三人で一室に寝起きして自炊しているんです。そして月々食べるだけは頂いています」

(お時は隠し録りされているとは知らなかったとはいえ、パンパンたちの仲間内事情をラジオの取材にあけすけに話したことから、昭和22年4月22日の放送直後、有楽町パンパンのリーダー夜嵐あけみらによって集団リンチを受け、1ヶ月ほどの入院生活を余儀なくされました)

お時の勤めた会社はその後倒産。市川の飲食店などで働き結婚するも、女児を出産した後に離婚。再婚後に男児を出産し、大学に進学させた、とお時のその後が報道で報じられています。

更生のきっかけとなった街頭録音のアナウンサー藤倉修一ともその後も連絡を取っており、「ときどき年賀状などきます。彼女が幸福になってくれたことは、当時のことを知るものとしては本当にうれしいことです。街頭録音の中で忘れられないものですからね。」とのちに語っています。

当時、お時のように職を得て、夜の街から足を洗うことができたパンパンは決して多くはありませんでした。愛人契約を結んでいる米兵と結婚するという選択肢もありましたが、必ずしも幸せな結婚生活が待っているとは限りませんでした。

1950年代末、基地を残して米軍が撤退すると、夜の街に立って米兵を待つパンパンたちも姿を消しました。

戦後の動乱の中を生きるために、家族を兄弟姉妹を養うため、あるいは貧困から脱するため、夜の街に立たざるをえなかった女性たち。激動の戦後、時代の荒波に揉まれながらも、必死に生きようとした彼女たちの悲哀が「星の流れに」の歌詞からひしひしと伝わります。

好きこのんでこの道に入ったわけではない…でも…こんな女に誰がした」

「星の流れに」を聞いていると、戦後の貧しい日本でパンパンとしてしか生きる術がなかった女性たちの切ない心の声が聞こえてくるような気がします。

(※「星の流れに」のタイトルは当初、「こんな女に誰がした」でした。GHQから対米感情を煽るおそれがあるとクレームがつき、作詞家の清水みのるはやむなくタイトルを変更しました)

以下、「星の流れに」の歌詞:

星の流れに 身をうらなって
どこをねぐらの 今日の宿
荒む心で いるのじゃないが
泣けて涙も かれ果てた
こんな女に誰がした

煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の 侘びしさよ
こんな女に誰がした

飢えて今頃 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に誰がした

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出典: blog.livedoor.jp

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