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トリビア

【プラハ名物・天文時計】御年611歳!生まれは中世・いまだに現役で時を刻み続ける時計

 

世界で最も美しい都市の一つ、プラハ。中世ゴシックやルネサンス、バロック建築様式の街並みが残る旧市街はまるでおとぎ話の世界さながら。「百塔の町」とも呼ばれ、世界各地から多くの観光客が訪れています。

Prague

街全体が一つの芸術品のように美しい古都プラハには観光名所がいっぱい。しかし、数々の観光スポットの中でも絶対に見逃せないのが旧市庁舎の「天文時計」。

プラハの街のシンボルであり不動の名物的存在のこの天文時計は、ヨーロッパの随一の巨大なからくり時計としても知られています。

時計が作られたのは600年以上前の中世、1410年。カダン出身の時計職人ミクラシュが、プラハ・カレル大学の数学・天文学教授ヤン・シンデルの設計図に基づいて製作しました。

以来、修復や増築を繰り返しながら時代を超えて時を告げています。精巧な機械仕掛けのこの時計は通常の文字盤に加え、天文用の文字盤も備えており、現存する時計の中では世界で3番目に古く、現在も現役で使われている最古の時計です。

美しい文字盤や装飾デザインと目に見える機械仕掛けの作り、一定の時間ごとに彫像と12使徒像が動くからくり仕掛けは見るものを魅了してやみません。

しかしこの天文時計、「いわくつきの時計」「オルロイ(天文時計)の呪い」としても知られているのです…

制作直後から、この天文時計はプラハきっての時計工匠ハヌシュによって作られたと誤解されていました。

世にふたつとない天文時計はプラハの街の繁栄の象徴であり、プラハの名声を周辺の国や地域に轟かす至高の傑作。他の街が同じ時計職人に依頼して似たような時計を作られては困る…ハヌシュによって再び同じような時計が作られることを危惧したプラハ評議員たちは、火で熱した火かき棒でハヌシュの目をえぐり取ったという伝説が残されているのです。

伝承によれば、目をえぐり取られ盲目となった時計工匠は目が見えないながらも市庁舎の塔に登り、天文時計を破壊して報復。修理できる者がいないため、その後100年以上もの間、天文時計は壊れたままだったと言い伝えられています。(あくまでも時計台にまつわる数多くの伝説の一つにすぎず、真相は定かではありません)

時計は何世紀にもわたり、修復・改良されており、当初は天文観測用の文字盤のみだった外観に後にカレンダーと通常の時刻表示、装飾や12使徒の像が追加されました。

600年以上時を刻んできた天文時計ですが、2度大きな危機を迎えています。

1度目は1760年。すでに老朽化し緊急の修繕が必要であったのですが、当時のプラハ司教は修復援助の申し出を断ります。撤去して廃棄される予定でしたが、幸いにも時計台はこの運命を逃れることができました。

2度目の危機は第二次世界大戦中の1945年。当時プラハに侵攻していたドイツ軍は降伏を迫るソ連やアメリカなどの連合国側からの都市奪還に対抗して、プラハの旧市街広場の南西部に向けて爆弾や砲弾による攻撃に出ます。その結果、市庁舎や歴史的建造物が焼き尽くされ、天文時計も木製の彫刻や暦表盤を焼失するなど大きな損傷を受けます。

天文時計が再び動くようになったのはその3年後。街のシンボルの復興のため、多大な労力が払われました。

600年以上にもわたり、プラハの街を見つめ続けてきた天文時計。中世の時代から街のランドマークとして時を告げ続け、権力者や市井の人々の生活とともに歩んできた長い歴史に改めて驚かされます。

プレビュー画像: ©Twitter/Mozinity ©Twitter/History of Astronomy