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えらい

ポーランドの孤児を救った日本の看護師たち

ポーランドと言えば、中央ヨーロッパに位置する国で、日本ではショパンの祖国などとして知られていますよね。

遠く離れたこのポーランドでは、かなり親日の人が多いという話を聞いたことはありませんか?

日本とは縁もゆかりもなさそうに感じるかもしれないこのポーランド、しかし今から100年以上前に、2つの国に築き上げられた、強い絆のエピソードが存在するのです。

それは、身を挺してポーランドの孤児たちを救った日本人たちのエピソードでした。



生き地獄に暮らしていた孤児たち

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それは大正9年6月の出来事でした。ロシアのウラジオストクにいたポーランド人女性のアンナ・ビェルケヴィチが、日本の外務省に必死に何かを訴えてきたことが、すべての始まりでした。

「シベリアで両親を失ったポーランドの子供たちを、日本で助けてもらえないか…」

ポーランドは10世紀の建国以降、とても過酷な道のりを歩んできた国です。常に周辺国からその存在を脅かされ続け、一時は国が消滅してしまったほどでした。その後、ロシアに従属する形で何とか国は存続したものの、ロシアは独立を謳って反抗してくるポーランド人を次から次へと流刑に処したのです。

その流刑地が、シベリアでした。

当時、シベリアには15万人から20万人もの流刑になったポーランド人たちが住んでいました。しかしその環境は想像を絶する地獄でした。氷点下70℃を記録することもあるような極寒の地、満足に食事すら取れないような、まさに生き地獄のような環境だったのです。親を失ってしまった孤児たちも溢れかえっていました。



孤児の受け入れは拒否され続けた

こんな状況に救いの手は差し伸べられなかったのでしょうか?状況を見かねたウラジオストク在住のポーランド人であるアンナ・ビェルケヴィチは、シベリアに住むポーランドの孤児たちを受け入れてくれる国を探しはじめます。

当時シベリアには、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本が出兵していました(シベリア出兵)。アンナはそれらの国々と交渉し、孤児たちを何とか受け入れてもらおうと働きかけます。

しかしその努力は無駄に終わってしまいます。欧米が支援する反革命軍の敗色が濃厚になると、各国の兵隊たちはどんどんと母国へ引き上げて行ってしまったのです。

最後の望みをかけて、アンナは日本に孤児の受け入れを頼んでみることにしたのです。そこには、ある別の理由もありました。



聞いていた日本の噂

Japan

当時、ポーランドにとって日本はさほど身近な国ではなく、さらに言えば「キリスト教徒を弾圧する、ひどい国だ」という噂もありました。

それでもアンナが日本に望みを託したのには、違う話も聞いていたからです。それは日露戦争のとき、やむをえずロシア軍に加わっていたポーランド人捕虜を、日本が手厚く保護してくれたという話。

「日本ならあるいは…」

そう思ったアンナは、藁にもすがる思いで、日本に助けを求めたのでした。



決断は早かった

もちろん、ことはそう簡単ではありません。内戦が続く場所での危険な救助活動を行わなければならないため、軍の協力は必要不可欠だったのです。

それでも日本サイドは、スピーディにポーランドの孤児たちの受け入れるということを決断。2回にわたる過酷な救助活動の末に、375人の孤児付き添いのポーランド人65人が日本に迎え入れられたのです。

子供たちの第一団がウラジオストクから敦賀に上陸したのは1920年7月22日のことでした。



手厚い保護

こうして東京の福田会に受け入れられた375人の孤児たち。205人の男の子と、170人の女の子たちでした。

その多くの健康状態はあまり良好ではありませんでした。多くは栄養失調で弱っており、皮膚病や百日咳などにかかっている子供たちもいました。日本の医師や看護師たちは、そんな子供たちに寄り添い、献身的な看護を行います。

その一日はとても規則正しいものだったと言います。健康面でのサポートをするだけではなく、看護師たちは精神的な面でも子供たちの支えとなりました。

また、子供たちが施設で暮らしていた間、(大正天皇の)貞明皇后が施設を訪問するなど、日本側は大きな敬意を持って、子供たちに接していたのです。

このような手厚い保護と歓迎で、徐々に健康を取り戻していった子供たちでしたが、決して全てが順調というわけではありませんでした。



看護師たちにとっても過酷なものだった

Hospital room

その頃、東京では腸チフスが流行しており、ポーランド孤児たちの中にも腸チフスにかかってしまう子がいました。そんな時でも、医師や看護師たちは自身が感染してしまうリスクを背負ってでも、子供たちを救うために必死に看病したと言います。看護師たちの思いはひとつでした。

「この子たちには、頼れる兄や姉、両親がいない。それならば、私たちがこの子たちの姉代わりになりましょう…」

子供たちの多くは回復しましたが、看護師のうちの1人フミさんは、腸チフスに感染し、亡くなりました。子供たちはその事実を知った時、まるで自分の家族を失ったかのように泣いたと言います。



別れの時

Cruises Ships

時は流れゆき、アメリカ経由で、ポーランドへ帰国できる船便が確保されました。しかし祖国へ帰ることができるというのに、子供たちの顔は暗いものでした。

「このまま、ずっと日本にいたい。日本で暮らしたい…」

日本の生活の中で、ずっと自分たちに優しく接し続けてくれた日本の人々と、離れたくなかったのです。しかしポーランドとの取り決めがあり、それは許されない願いでした。

船の客席に乗り込んだ子供たち。デッキから、涙を流しながら、大声で「ありがとう」と叫び続けたと言います。

こうして子供たちを乗せた客船はアメリカを経由し、無事にポーランドに帰ることができたのです。



恩はいつまでも

時は流れ、2002年。天皇皇后両陛下(現上皇上皇后両陛下)がワルシャワを訪問した際、そこには驚くようなゲストの姿がありました。

それは、日本で一時を過ごした、あの時救われた3人の孤児たちでした!天皇に面会した当時の孤児たちは、日本で過ごした素晴らしい思い出を、涙ながらに語ったと言います。

助けられた孤児たちが祖国に帰って伝えたのは、日本の人々がどれほど自分たちに敬意を持って接してくれ、そして大きな精神的な支えになってくれたかということでした。



ポーランドに今もなお親日の人が多いのは、この出来事が大きく関係していると言われています。今後どんなに時が流れても、かつて2つの国が築いた友情が失われることなく、そして世代を超えて、語り継がれていきますように。

プレビュー画像: ©Facebook/Japan Informer

出典:warakuweb