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事故に遭い亡くなった母の様子を淡々と綴る小学校四年生 間違いを指摘しようとした教師はハッとした
みなさんも小学生の時に、学校の授業で詩を書いた思い出があるでしょう。
詩とは言っても、多くの生徒は、友達と遊んだこととか、家族でお出かけしたことのような他愛のない出来事を、短い文にしてまとめただけ、なんてものがほとんどだったのではないでしょうか。
心に響く詩を書くことなど、そう容易くできることではありません。
しかし…今、新聞に掲載されたある小学生の詩が、深く心に響いてくると大きな話題を呼んでいるのです。
実際にその記事をお読みください!
ある小学校4年生が、こんな詩を書いてきたそうです。
お母さんが 車に はねられた
お母さんが 病院の れいあんしつに ねかされていた
お母さんを かそうばへ つれていった
お母さんが ほねになってしまった
お母さんを 小さなはこに 入れた
お母さんを ほとけさまに おいた
お母さんを まいにち おがんでいる
事故で亡くなったお母さんとの別れを綴った、あまりにも悲しい詩。母を亡くした悲しみが、淡々としたリズムと共にありありと伝わってきます。
担任の先生は、主語である「お母さん」は1回書けばいい、2回からは要らないと指導したそうです。
しかしその小学4年生は、断固として直そうとしませんでした。
どうしたものかと先生から相談された詩人の故・佐藤浩さんは、こう答えたと言います。
「何回でも、百万遍でも、書かせてあげてください。詩の形を整える前に、その子の悲しみを分ち持って…」
しばらく前の新聞記事から。
交通事故に遭い亡くなったお母さんの様子を淡々と綴っている小学校四年生の書いた詩。
お母さんが繰り返されるたびに母への愛と亡くした悲しみが増幅されていくようで感動したのだけど
学校の先生はお母さんは一回でいいと指導。だが、この小学生はそれを頑なに拒んだそう pic.twitter.com/NACJntmzQd— tenpelon (@tenpelon) April 27, 2021
この小学生の詩的センスに脱帽。
遠藤ミチロウ の「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」を思い出してしまった。— tenpelon (@tenpelon) April 27, 2021
おそらくこの小学4年生は、詩としての強さや美しさやを考えてあえて「お母さん」という言葉を残した、というわけではなく、ただ単に、「お母さん」という言葉を詩の中で何回も叫びたかったのではないでしょうか。
しかし、結果として、小学4年生の心の中がありありと伝わってくるようで、とても心に響く詩になってはいないでしょうか?
Twitterの人々の反応
私は、この記事を読んだ時に、この子の詩に胸がいっぱいになりました。そして、佐藤さんの「何回でも、百万遍でも書かせてあげてください…」のくだりで、涙があふれてしまいました。詩は、その人の心を表現するものです。形なんか関係ありません。
— tokkin1964 (@tokkin64) April 29, 2021
この先生の指導の是非については全くわからないし、意見する気もないけど、作者の子は先生からの案を否定する事で、自身の詩に対する気持ちを深める事ができたんじゃないかな。この詩が、ご本人にとってどんな存在として心に留まるか。そこが一番大事なところだと思う。そこを一番大事にして欲しいな。
— いろは (@t_blue_engine) April 29, 2021
『詩』って、自分の心の中の感情なんだから、他人に見せて他人の感想なんてどうでもいい。ましてや修正指導なんていらない。
それは、『自分の心』じゃなくなる。— Gorikko(元Yukkoです)🐱 🐼 🚀 (@kko_cocco) April 29, 2021
お母さんに関われた最期を繰り返しの中で噛み締めているようで泣けました。お母さんを呼ぶ機会ももう心の中でしかないかもしれませんしね、それをこの数回に込めたのかと思うとまた涙が止まりません。。情景の伝わる、いい詩だと思いますよ。゚(゚´Д`゚)゚。
— いなり (@inarimama624) April 29, 2021
深読みかもしれませんが…
どうしたものか?と相談してきた教師も何かの答えを求めていたのかも知れないなと思いました
この記事を読み、場面を思い浮かべ、自分の心をそこに置いてみるだけで気づくこともあるのかな、と— けろけろ (@kerokerokerrr) April 29, 2021
亡き母を想い、幾度も母を呼ぶ子供の心がひしひしと伝わる詩に心を揺さぶられます。形式にとらわれず、ありのままの心を表現することは、どんな詩の技術にも優るレトリックなのかもしれません。
プレビュー画像: / © Twitter/ tenpelon
