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トリビア

父がこの世を去る2ヶ月前、娘は抱っこを拒んだ。2年後、父に似た見知らぬ男性が少女にこんなことをした。

秋田県能代市二ツ井町にある、きみまち阪。明治14年に東北を巡行された明治天皇が、その美しさに感動して「きみまち阪」という名前をつけたそうです。その際、長旅を気遣った皇后の手紙がここで天皇を待ち受けていたというエピソードも残されています。二ツ井町は恋文の町として親しまれ、桜や紅葉の名所でもあることから県内外から観光客が訪れるデートスポットとしても有名です。

そんな地名にちなんで、今から22年前の1995年、二ツ井町主催の「第1回日本一心のこもった恋文」コンテストが開催されました。その年のバレンタインデーに発表された大賞に輝いたのは、秋田市の柳原タケさん(当時81歳)の手紙でした。

「恋文募集」のポスターを郵便局で見かけ、何気なく手紙を書いて応募してみたというタケさん。その手紙が審査員全員一致で大賞に選ばれるとは思ってもみませんでした。「天国のあなたへ」と題されたそのラブレターは、32歳で戦死した夫宛てに半世紀越しの想いを綴ったもので、タケさんにとっては最初で最後の恋文となりました。 

「天国のあなたへ

娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。

たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。

私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。

あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。

お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。

あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。

そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。

春のあでやかな桜花、夏なまめかしい新緑、秋ようえんなもみじ、冬清らかな雪模様など、四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。

私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きて参りました。

もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。」 

1995年は戦後50年という節目の年でもありました。なんとも切なく、瑞々しいタケさんの言葉は、当時、新聞やテレビ、雑誌でも話題となり、日本中を感動の渦に巻き込みました。恋文大賞の副賞はアメリカ旅行。翌年タケさんは、娘と孫を連れて小説『マディソン郡の橋』の舞台となったアイオワ州のマディソン郡にある橋を訪れるツアーを楽しみました。

手紙が宛てられていたタケさんの夫・淳之助さんは、28歳のタケさんと3歳の娘を残して享年32歳で戦死しました。こちらは唯一残された家族の写真です。淳之助さんが戦死する2ヶ月前に中国から一時帰国し、一日だけ秋田に帰ってきたときに撮影されたものです。タケさんの娘で日本画家の佐藤緋呂子さんは、その時のことを記憶しています。

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「わたしはその日のことを不思議な出来事として心の奥にずっとしまい、しっかりと記憶していた。

物心ついて父に逢った、たった一度だけの日のことを。

祖父が経営していた『はかりや印刷所』の従業員の人々が気ぜわしく動き回り、祖父母、叔父叔母、そして母がその日は『そわそわ、ざわざわ』していた。

浮き立つような空気の中、その人『父』は現れた。わたしにとって『父さん』という意味がわからないまま、みんなが『父さんだよ』という切羽詰った言葉の中に、とっても『大事な特別の人』なのだということをつよく感じていた。

眼鏡をかけ、髭を生やしたその人は少し恥ずかしそうに

『おいで・・・・・』と両手を差し伸べた。

わたしは固くなって『抱っこ』された。

翌朝、雪の中をカメラを構えて叔父(洋画家・柳原久之助)が待っていた。着物姿の父が両手を差し伸べたのに、わたしは母にしがみついたまま、その写真のなかにおさまってしまった。

父は差し出した手を袖の中に組み、わたしは気にしながらも母の腕の中にいて、そして一枚の親子の写真が残された。

それからずっとわたしは『悪いことをした』という思いに胸を痛め、5歳になるまでそのことを悔やみ続けていたのだった。

5歳になったある日、母と上京し皇居二重橋の前で大勢の兵隊さんたちに出会った。その中でひときわ目立って凛々しい兵隊さんが振り向いた。

『おいで・・・』と手招きし

わたしに両手を広げた。

(アッ、今度こそは笑って『抱っこ』されよう・・・)あの時の人ではないと直感しながらも

わたしは思いっきり走り、勢いよくその人の胸の中に飛び込んだ。

いままでのわだかまりが消えて心がスーッと晴れていくのを全身で感じていた・・・。

その人は父の隊長、杉山元 その人だった。

それは父の戦死から2年後母はまだ30歳の若さだった。 」

「きみまち恋文全国コンテスト」は1995年から10年間開催され続け、国内外から多くのラブレターが届けられました。その際にきみまち阪公園に設置された「恋文ポスト」は今も利用でき、このポスト投函するとハート型の風景印が押印されて届きます。きみまち阪は、今も昔も「縁結び」パワースポットとして、多くの恋人・夫婦の縁を見守ってくれているのです。

タケさんの恋文からは、終戦から72年の今も当時のまっすぐな想いが伝わってきます。返信が来ることのない手紙だということがよけいに切なく心に響きますね。書かれてからその後20年以上も恋文が読まれ続けることになるなんて、タケさんは想像もしなかったのではないでしょうか。ちなみにタケさん直筆の恋文は現在、淳之助さんの思い出の品と共に靖国神社の遊就館にて常設展示されています。天国で(もしくは宇宙で)再会を果たした2人は、きっと一緒にきみまち阪を散歩しているのでしょうね。

あなたは、もう会えなくなってしまった人に手紙を書いたことがありますか?