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アンビリーバボー

17世紀フランスで暗躍した黒魔術士「ラ・ヴォワザン」

絶対王政全盛期を迎えた17世紀フランス、太陽王ルイ14世によりベルサイユ宮殿が建造され、ヨーロッパ随一の煌びやかな宮廷文化が花開いた時代。

しかし光あるところには闇あり。華やかな貴族文化が隆盛を極めるその舞台裏では、密かに毒殺事件が横行していたのです。

当時、パリやベルサイユでは金と名誉に目が眩んだ貴族が目障りなライバルを毒殺する暗殺事件や陰謀が後を絶ちませんでした。道ならぬ恋に悩む貴婦人が愛人と共に夫や恋敵を毒殺しようと目論んだり、怪しげな媚薬を使い意中の相手の気を惹こうとしていたのです。

こうした毒薬や媚薬を提供していたのは黒魔術士。表向きには占い師としてタロット占いやら水晶占いの看板を掲げていますが、その裏では堕胎や毒薬の販売を生業としていたのです。パリ市内にはこうした怪しげな「占い」を謳う数多くの毒薬業者が店を構え、互いに競い合うかのように毒薬技術向上の切磋琢磨に明け暮れていました。

毒薬の投与方法も様々で、ただ単に毒薬を飲ませるだけでなく、ターゲットの衣服をヒ素入り石鹸で洗う方法から、毒が配合された銀食器を使う方法など多岐にわたったそうです。さらに効き目も即効性のあるものから、数日、数ヶ月、1年後と客の要望に応じて対応。そのため、不審な死を遂げても毒殺と怪しまれるリスクは低かったとか。

こうした毒薬ブームの中心にいたのがラ・ヴォワザン。裕福な宝石商の妻としてパリの豪邸に暮らし、優雅な生活を送ってた一見平凡なブルジョワ婦人でした。夫と死別後、表向きは助産師・占い師として活躍していたものの…裏では媚薬に毒薬、避妊の薬草、催淫剤の製造に手を染めており、さらに堕胎や生まれたばかりの赤ん坊の始末までも請け負っていました。

↓ 貞淑な未亡人と見せかけ…実はバリバリ、超やり手の黒魔術師だったラ・ヴォザン

ヴォワザンは毒薬を何百種にでも調合する術に長けており、その調合と服用する量によって症状は変わり、即効性のものから遅効性のものまで効果が現れる時間を調整することができました。そのため、不可解な死に検察側が毒殺を疑っても、パターンの多さから彼女が毒薬の出処と突き止めることは不可能でした。

顧客の要望の応じて様々な怪しい薬物を販売、なかでも媚薬で相手をたらしこみ、毒薬で遺産だけをいただくという手法はヴォワザンの十八番。評判が広まるに連れて数多くの上流階級の貴婦人たちが身分を隠して彼女のもとを訪れるようになり、やがてフランス宮廷に出入りする有力な大貴族とも繋がりをもつようになります。

邪魔な伴侶やライバルを抹殺できるのであれば、どんなに高額であろうと金に糸目をつけない…道徳的な観念はさして問題にせず、相手を消すためであれば手段を選ばない上流貴族たちの欲望はヴォワザンにとって莫大な収入源となったのです。

ヴォワザンの顧客である大貴族の中には、当時のフランス宮廷において最もVIPとされた人物の一人、モンテスパン公爵夫人の名もありました。

当時、ルイ14世の第一の愛人として宮廷で絶大な権力を振るっていたモンテスパン公爵夫人。その非の打ち所のない圧倒的美貌と豊満ボディで王の寵愛を一身に受けた夫人ですが、かなりの野心家で権力欲が強く性格も悪いと評判の…つまり性悪女だったそうです。

夫のいる身でありながら虎視眈々とルイ14世の寵姫の座を狙っていたモンテスパン公爵夫人は、先に王の寵姫となったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを公妾の座から引きずり下ろすため、ヴォワザンに依頼し当時禁止されていた黒ミサを決行。一糸まとわぬ姿で祭壇に横たわったモンテスパン公爵夫人の上で生贄の赤ん坊を呪文を唱えながら殺害、流れる血で聖杯を満たしたそうです。

美しい顔の裏に隠された恐ろしい素顔と欲望への執念…人間の恐ろしさを垣間見るエピソードです。

ヴォワザンの媚薬と黒ミサのおかげか、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを蹴落とし第一の愛人の座を手に入れたモンテスパン公爵夫人。ルイ14世の寵愛の深さに増長し、我が世の春とばかりに驕り高ぶり、以前から見せていた傍若無人な性格はますますエスカレート

宮廷内で女王のごとく振る舞い、我儘&贅沢三昧で王妃や宮廷の人々の怒りを買い、多くの敵を作りましたが本人はお構いなし、外国の使節の中には、影の薄い女王よりも贅沢に着飾りしゃしゃり出るモンテスパン公爵夫人を王妃だと誤解する者までいたとか。

↓ 天使と三美神の祝福を受けるモンテスパン公爵夫人。権力者にありがちな「私を讃えなさい!」スタイル絵画です。

しかし、王の権威を笠に着てやりたい放題のモンテスパン公爵夫人の天下にも陰りが見え始めます。

寵姫の座を手に入れてから約13年後の1678年、ルイ14世の寵愛が18歳のフォンタンジュ嬢に移ったのです。相次ぐ出産と加齢により、容姿の衰えを実感していたモンテスパン公爵夫人にとってフォンタンジュ嬢の若さと美貌は大きな脅威でした。38歳の自分よりもずっと若いフォンタンジュ嬢へ激しい嫉妬心を募らせたモンテスパン公爵夫人はまたしてもヴォワザンの媚薬と黒ミサに頼ることに。

しかし今回ばかりは媚薬も黒ミサも効果がなく、王の寵愛を取り戻すことはできませんでした。

ちなみに、ヴォワザンによって調合された媚薬の原料はヒキガエルの骨、マムシの目玉、ガマの油、カンタリス、イノシシの睾丸、モグラの歯、コウモリの血、人体の一部の黒焼き…さらには黒ミサで生贄となった赤ん坊の血まで媚薬として王の食事に密かに混入していたとか。知らずに口にしていた王が気の毒ですね…

黒魔術の効き目もなく、嫉妬に狂ったモンテスパン公爵夫人はフォンタンジュ嬢をルイ14世もろとも暗殺し、国の実権を握ろうと画策していたとの説も流れています。

しかしその頃、相次ぐ毒殺事件に関する密告を受けた警察は本格的な捜査を開始。囮捜査の結果、芋づる式に毒殺や悪魔崇拝に関わった者たちが検挙されます。

事態を重く見たルイ14世は「火刑裁判所」なる強権的な機関を設置。控訴は一切認められない国王直轄の裁判所で、犯人と認められれば、即火刑執行となる裁判です。予想を遥か上回る人数が逮捕される中でヴォワザンにも捜査の手が及び、ついに1679年、ヴォワザンはパリ警察に逮捕されます。ヴォワザンは上流階級の顧客を抱えるだけでなく、黒魔術業を大規模に展開し、毒薬の輸出まで手がけていました。

また、捜査の結果ヴォワザンの家の庭からは2500体の遺体が発見されました。そのうち、黒ミサの犠牲となった幼児は2000人ともいわれます。

ヴォワザン逮捕の知らせに、宮廷貴族たちはいつ自身のことが白状されるかと戦々恐々したことでしょう。

捕らわれたラ・ヴォワザンは拷問にかけられ数多くの悪行を自白しましたが、最後まで超VIP顧客であるモンテスパン公爵夫人の名は口にしませんでした。

1680年2月20日、ヴォワザンは火刑に処されました。公衆の面前で鎖でつながれ、藁の上に座らされたヴォワザンは自らの罪の白状と、神と王に対しての謝罪を命じられたが、これを断固拒否。大声で罵り、呪いの言葉を発し燃え盛る炎の中で息絶えたそうです。

警察の追及から逃げおおせたとモンテスパン公爵夫人はホッと胸を撫で下ろします。しかし、そうは問屋が卸しませんでした。ヴォアザンの娘がモンテスパン公爵夫人が上顧客だったことを告白。ついに夫人の悪行はルイ14世の知るところになりました。

寵愛が薄らいだとはいえ、かつて溺愛した愛人のおぞましい裏の顔に驚いたルイ14世。王の権威をも揺るがしかねない一大スキャンダル発覚を恐れ、火刑裁判所を閉鎖、事件に関わる証拠品は全て焼却処分を命じ、愛人の不祥事を闇へと葬り去ろうとしました。しかし、国王はうっかり公文書の複写分を見落としていた為、事件の全貌は後に人々の知るところとなってしまいます。

この事件によって、完全に国王の寵愛を失ってしまったモンテスパン公爵夫人。その後も宮殿に住み続けることは許されたものの、ルイ14世にはすっかり見放され、王の寝室から遠く離れた部屋へと強制引越しさせられます。

それでもなお、周囲の冷たい視線を浴びてもしぶとく宮廷に留まっていましたが、ついに1686年、宮廷を出てサン・ジョゼフ修道院に入りました。ルイ14世は出て行ったモンテスパン公爵夫人の気が変わって出戻ってくることのないよう、空いた部屋を早々に別の廷臣に与えたそうです。よっぽど戻ってきてほしくなかったんですね…

17世期のフランス宮廷を巻き込んだ黒魔術スキャンダル。人間の心の闇と欲望の深淵を覗くかのようなエピソードです。

当時の上流階級の驚きの生活についてはこちらの記事からもご覧いただけます。

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