えらい
日本の少佐は海に浮かぶイギリス敵兵422名を発見した 少佐が叫んだ言葉にイギリス兵は耳を疑った
それは1942年3月1日、ジャワ島スラバヤ沖で起こった出来事でした。
当時は、第二次世界大戦の真っ最中。戦況は日本側に有利でした。
その日、イギリスのフォール少尉の乗る重巡洋艦「エンカウンター」は、日本軍によって撃沈されたのです。
乗っていた400名以上のイギリス兵は、たった8隻の救命ボートにしがみついて、漂流しました。
それでも、フォール少尉は希望を捨ててはいませんでした。船が撃沈される直前に、SOSの無線をオランダ軍の基地に向けて発信していたからです。
「きっと、オランダ軍が助けに来てくれる…」
フォール少尉はそう信じて、待ち続けました。
赤道直下、容赦なく太陽が照りつける中で、イギリス兵の中には、「もうダメだ」と泣き出す者や、完全に生き延びるのをあきらめたような表情の者もありました。それでも、フォール少尉は仲間を励まし、こう言い続けました。
「あきらめちゃダメだ、生きて祖国へ帰ろう。家族を思い出すんだ…」
けれども、その希望も虚しく、待てども待てども、オランダ軍が助けに来る気配はありませんでした。
漂流から20時間経過しても、オランダ軍から救いの手が差し伸べられることはなく、あまりの苦しさに、自殺を試みようとする者まで現れ始めました。
さすがのフォール少尉も、自らの命に終止符を打つ覚悟を決めようとしていました。
すると、その時です。
遠くから、船の光が近づいてくるではありませんか。
ようやく、仲間が助けに来てくれた…!
安堵するイギリス兵たち。しかしよく見ると、それはイギリス軍の船でも、オランダ軍の船でもありませんでした。
それは敵国・日本の駆逐艦「雷」(いかづち)だったのです。
イギリス兵は絶望しました。きっと捕らえられて、捕虜になるか、殺されてしまうに違いない。
イギリス兵が死を覚悟したその時、甲板で、ある日本人の大きな声がこだましました。
「敵を救助せよ!」
雷は、救助信号の旗を上げました。
あまりのことに、状況がよく飲み込めないイギリス兵たち。日本兵は、漂流するイギリス兵全員を海面から引き上げ始めたのです。
乗組員220名の雷の甲板には、その倍近い422名ものイギリス兵で溢れ返りました。イギリス兵たちは撃沈された際に流れた出た重油でべっとりと汚れていましたが、日本兵は丁寧にアルコールで拭き取ってあげました。
イギリス兵にはシャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルクとビール、ビスケットが与えられました。それは日本兵にとっても貴重な食料でしたが、惜しみなく分け与えられたのです。
しかしそれでもまだ何をされるのか、不安が拭えないでいるイギリス兵たちでしたが、その後ついに自分たちの状況を知ることになります。イギリス海軍の21人の士官が集められ、雷の艦長は端正な挙手の敬礼をした後、英語で「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」とスピーチをしたのです。
自分たちは救助された…イギリス兵は心を動かされ、涙を流す者までありました。
そのすべての決定を下したのは、艦長の工藤俊作少佐でした。身長185センチ、体重90キロの巨漢。
工藤俊作が敵兵を救助したのは、ある信念があったからです。それは、工藤俊作が海軍兵学校にいた頃から、徹底的に叩き込まれた、武士道でした。
そんな言葉が、工藤俊作の頭の中に深く刻まれていたのです。
救助されたイギリス兵たちは元気を取り戻して、翌日、無事に抑留中のオランダ病院船に全員移送されました。
フォール卿は、自らの人生を1冊の本にまとめ、その中で駆逐艦「雷」との出会いと艦長であった工藤俊作に助けられ九死に一生を得たことを語っています。そしてその1ページ目にはこんなことが書かれています。
「この本を、私の人生に運を与えてくれた家族、そして、私を救ってくれた工藤俊作に捧げます…」
駆逐艦「雷」はその後撃沈され、乗組員はほぼ全員が死亡しました。
工藤俊作は別の艦に移動していたため生き延び、戦後日本へ帰国しましたが、1979年、78歳でこの世を去りました。
そして、最期の瞬間まで、本人の口からこの経験が語られることはなかったと言います。
なお、フォール卿の著書は邦訳もされ「ありがとう武士道 第二次大戦中、日本海軍駆逐艦に命を救われた英国外交官の回想」として出版されています。
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