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【後編】自由を求めた親にセックスカルトに入れられた幼い兄弟 17年後の2人の運命に心が震え動いた

1993年10月31日、ハリウッドスター、リヴァー・フェニックスは突如としてこの世を去りました。ロサンゼルスのナイトクラブでその晩、ステージに立つ予定だったリヴァーでしたが、ヘロインとコカインを混ぜたスピードボールの過剰摂取が原因で、命を落としたのです(前編で自由すぎる両親に翻弄されたリヴァー・フェニックスの前半生をご覧ください)。

リヴァーの実の弟・リーフはその晩、息を引き取る兄の姿をしっかりと目に焼き付けていました。救急車を呼んだのも他ならぬリーフです。録音されていたリーフの電話の震える声は、ワイドショーで数週間の間、何度も何度も放映されたと言います。

「同情」の皮こそかぶっていましたが、実際のところ、兄弟を襲った突然の悲劇はゴシップに目が無いメディアの格好の餌食となってしまったのです。

兄のリヴァーと同じようにリーフも、当時から子役として活躍していました。しかしアイドル的な人気を誇っていたリヴァーと違い、リーフの存在は明らかに地味でした。(もっとも、リヴァー本人としてはアイドル的な扱いには不服だったようですが。)

「起きろリーフ、お前は演技をやるんだ。これがお前のやることなんだよ」

兄のリヴァーに有名俳優の演技がおさめられた映画のテープを見せられながら、いつもそんな言葉を聞いていたリーフ。それだけに、その喪失感は大きなものでした。

そんな風に兄の死に打ちひしがれているところに、追い討ちをかけるようなメディアのデリカシーのない報道…耐えることが出来なくなったリーフは、家族と一緒に、コスタリカの農場でひっそりとした隠遁生活を始めるのです。まだたった19歳でした。

傷が十分に癒えるまで、長い時間がかかりました。しかし子役としてのリーフの存在は、「地味だけど、いい演技をする」と映画関係者からはしっかりと覚えられていたのです。兄の死から1年以上が経過した時、オーディションの誘いを受け、ついにリーフはアメリカに戻り俳優としてやり直す決意をしたのです。

子役の時はリーフと言う名前で活動していた彼でしたが、そのときのイメージを払拭するためか、俳優としてはホアキン・フェニックスと言う名前で活動を開始します。

ホアキンをオーディションに呼んだのは、有名監督のガス・ヴァン・サントでした。ガス・ヴァン・サントは1991年の映画「マイ・プライベート・アイダホ」でリヴァーを主演に据えており、ホアキンには何かしらの縁のようなものを感じていたのかもしれません。

結局オーディションに合格したホアキンは、その映画「誘う女」(1995)でニコール・キッドマンと共演。それを契機に、オリヴァー・ストーンなど業界内でよく知られた監督たちから声がかかるようになっていったのです。

こうして、ホアキンに契機が訪れます。イギリスの巨匠、リドリー・スコットが巨額の制作費をつぎ込んで作った「グラディエーター」(2000)に、若く不安定なローマ皇帝コモドゥス役で出演。主演であるオーストラリアの大スター、ラッセル・クロウの存在を食ってしまうほど強烈な印象を観客に残し、アカデミー賞ゴールデングローブ賞にノミネートされるなど、一躍スター的な地位に近いたのです。

しかしキャリアはそのまま順調にはいきませんでした。2006年には映画「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」で実在したフォーク歌手ジョニー・キャッシュを演じましたが、彼は薬物とアルコール中毒に長年悩んでいた人物。メソッド俳優(本当に役になり切る)であるホアキンは、徹底した役作りが災いして自身もアルコール中毒となってしまい、映画の撮影後、リハビリ施設へと送られることとなったのです。

ホアキン、その後は長い低迷期に突入します。突然「俳優活動は疲れた」と、ラッパーに転向することを宣言したり、トーク番組で、明らかにシラフでない雰囲気で出演したりと、奇行が目立つようになっていきます。「明らかに迷走している」と言われ、ホアキンはもう終わった俳優だと見なされるようになっていきます。(その後、こうした奇行は、実生活も含んだモキュメンタリーの制作の一環、つまりパフォーマンスであったと明らかになりました。)

ホアキンがこのようにメディアを翻弄しようとしたのは、少年時代のトラウマ的な記憶が原因で、メディアに対して懐疑心のようなものがあったからに違いありません。「ほら、あなたたちはゴシップに目がないんでしょ?」とでも言いたげな、ホアキンからの挑発だったのかもしれません。

このように、大ブレイク、そしてどん底の低迷期を経て、俳優としての階段を着々と登っていったホアキン。必ずしも万人受けするタイプではありませんでしたが、そのユニークな存在は映画製作者からは熱狂的に支持されるようになっていき、ポール・トーマス・アンダーソンスパイク・ジョーンズなどの個性派監督の作品に次々と出演し、存在感をさらに増していくのです。

そして2019年、運命が動き出します。映画「ジョーカー」で、バットマンのアイコニックな宿敵、ジョーカーを演じたのです。

心優しき小市民である青年が、メディアの無神経さに翻弄され、悪の化身に身を落としていく姿を刻々と描いたこの作品。

2008年にヒース・レジャー「ダークナイト」で演じた凄まじいジョーカーは絶対に超えられないと言われていた中、悲壮感を身に纏ったあまりにも現実的なジョーカー像は、ホアキン自身の壮絶な人生とも重なり、アメリカ人の心を大きく揺さぶりました。

ホアキンの貢献により、「ジョーカー」は2019年を代表する映画となり、ベネツィア国際映画祭で最高賞を受賞(アメコミ映画としては史上初)したことを皮切りに、賞レースを席巻。ジョーカーの誕生秘話を描くという、従来のバットマン映画と比べるとかなり低予算で地味な映画だったにもかかわらず、興行収入の面でも、世界で10億ドルを超えるセンセーショナルなまでの大ヒットを記録したのです。

映画の成功に導かれるようにして、2020年、ついにホアキンはたどり着きます。第92回アカデミー賞の授賞式…ホアキン・フェニックス、その名は、最優秀主演男優賞の受賞者として読み上げられたのです!

それは、あまりに長い旅でした。過酷な運命に翻弄されながらも、長い長い年月を経て、ホアキンは、ついに兄がなることが叶わなかった真に演技で認められる俳優になったのです。

授賞式の壇上、ホアキンの頭の中では、あの日の兄の言葉が聞こえていたかもしれません。

「起きろリーフ、お前は演技をやるんだ。これがお前のやることなんだよ」

プレビュー画像: / ©Twitter/ ReelTalker

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