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エンタテイメントとして存在した人間動物園:人類の悲しい歴史

1903年、国内の産業振興を目的として大阪で開催された内国勧業博覧会では、当時の農産業、工業、美術などの成果が大々的に披露されました。そのうち「学術人類館」での展示が、その後大きな議論を呼びます。展示では、アジア・アフリカ各地からの合計32名の人間が、民族衣装姿で日常生活を見せていたのです。生身の人間をまるで檻に入れた動物のように「展示」したことから、多くの人に衝撃を与えました。

帝国主義が世界を蹂躙していた20世紀初頭、人間を展示したのは日本だけではありませんでした。西欧諸国は世界各地の国々を植民地化し、コンゴ、チリ、フィリピンなどの国々の住民を、自国の博覧会で展示しました。

この類の文化・生態展示は、1870年代から、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ミラノ、ハンブルグなどの大都市で人気を博し、その後、歴史家たちにより「人間動物園」と呼ばれるようになります。

南太平洋、アジア、アフリカの国々から連れてこられた人々は、動物と一緒に展示され、「狩り」のデモンストレーションをするよう命じられていました。

1906年、ニューヨークのブロンクス動物園で開催された人間動物園では、コンゴから連れてきたピグミーの男性が展示されました。この男性の名はオタ・ベンガ。オタ・ベンガは、チンパンジーやオランウータンなどと一緒に展示され、観客のアメリカ人たちの前でダンスをするよう強要されました。この展示は”Missing Link”(「失われた繋がり」)と題され、先住民たちは猿と西洋人たちの「失われた繋がり」だということを示唆していました。オタ・ベンガはその後銃で自らの命を経ちました。

この展示を計画した人物の一人、ディソン・グラントは人種思想主義者で、彼が残した1916年の著作The Passing of the Great Race; Or, The Racial Basis of European History’(『偉大な人種の消滅』)は、アドルフ・ヒトラーの反ユダヤ思想の基礎となったと言われています。

1931年、フランスのパリ。国際植民地パリ万国博の人間動物園は、6ヶ月間に渡り340万人もの観客を集めるほどの大盛況でした。囲い中に手を入れて、見世物にされた幼い子供と家族に触ろうとする人もいました。

サッカー元フランス代表でニューカレドニア出身のクリスティアン・カランブーは、この展示にまつわる家族の歴史を公表しています。1931年、カランブーの祖父母を含むニューカレドニアの先住民カナク人たち100人余りは、外交代表としてパリにやってきましたが、たどり着いたのは「人食い人種」の展示スペースだったのです。

1958年ベルギーでの展示を最後に、ようやく人間動物園はこの世からなくなりました。上の写真はこの最後の展示の時の写真で、コンゴから連れてこられたジャッキーと名付けられた少女が、まるで動物園の猿のように観客から食べ物をもらっています。

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記録によれば、1810年から1958年の間に各国の展覧会やサーカス、劇場などで人間動物園を見た人は14億人に上ると推計されるそうです。

アメリカの哲学者、サンタヤーナは、”Those  who  cannot  remember  the  past are condemned to repeat it.”「過去を記憶できないものは、その過去を繰り返す運命を背負っている」という言葉を残しています。つまり、過去を繰り返さないためには、歴史をきちんと学んでその教訓を生かすことが重要ということです。

幸いにも2011年、パリのケ・ブランリー美術館で「作られた未開人(the invention of the savage)」が開催されるなど、植民地から連れてこられた先住民たちが欧米諸国で動物のように見世物にされた歴史と向き合う試みが続いています。

現在では「人間動物園」は存在こそしないものの、異なる文化を自分の物差しで測ろうとする姿勢は身近にあふれているのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか?