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えらい

「史上初めて映画で全裸になった女」としか思っていなかった。しかし彼女の残したメモを見て男たちは青ざめた。

絶世の美女へディ・ラマー(Hedy Lamarr)。1914年オーストリア・ウィーン出身、18歳で1933年のチェコ映画『春の調べ』に出演し、全裸シーン、オーガズムシーンを世界で初めて披露したことで一躍時の人となった世界的大女優です。

2000年に85歳でこの世を去っていますが、彼女は「偉大な発明家」としても後世に大きな功績を残しているのです。ラマーの発明として現在わかっているものには、飛行機の高速化、そしてGPSBluetooth、携帯電話、Wifiなど私たちの生活で日常的に使われている最新無線技術の先駆的存在FHSS(周波数ホッピングスペクトラム拡散)と呼ばれる通信方式などがあります。

銀幕の上ではセクシー女優として一斉を風靡しつつ、プライベートでは発明で社会に貢献したラマー。一体どんな人物なのでしょうか。

YouTube/PBS NewsHour

15歳で女優を志したラマーでしたが、科学への情熱は途絶えることはなく、独学で学びながら女優業をこなしていました。しかし『春の調べ』出演後、スキャンダラスな女優というレッテルを貼られ仕事が激減。オーストリアの金持ち武器商人フリードリヒ・マンドルと結婚します。マンドルは当時のイタリアのファシズム政権に肩入れし、大量に武器を売っていました。さらにナチス政権下のドイツへの大量武器輸送さえ目論んでいたそうです。

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マンドルはラマーの女優としてのキャリアを認めず、あらゆる場所に同行させました。嫉妬深く妻を支配しようとするマンドルの元、ラマーは軟禁状態になっていました。マンドルはファシストやナチスとの武器商談、研究所での業務にもラマーを同行したため、ラマーは対艦兵器と誘導システムについて多くのことを学び、暗記していました。

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不幸な結婚生活とナチスの迫害から逃げようと、ラマーはバッグに宝石を詰め込んで、メイドの服を着て家を脱走。パリ、ロンドン、そして米国へ渡ります。最終的にハリウッドに渡ったラマーは大成功を収め、「世界一の美女」の名をほしいままにします。しかし時代は第二次世界大戦真っ只中。世界中が枢軸国の脅威にさらされていました。

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米国に渡ったラマーは、当時世界最速の飛行機の開発を急いでいた発明家で大富豪のハワード・ヒューズ(写真上)と出会います。「飛行機は遅すぎると思っていた。翼は四角じゃないほうがいい。だから魚と鳥の図鑑を買って、最速の魚と鳥の形を掛け合わせて描いたの」とラマー。すると「君は天才だ」とヒューズは即座にラマーのアイデアを採用したそうです。

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その後実験室と研究員2人をヒューズから与えられたラマーは、プライベートで”趣味の”実験に没頭するようになります。

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1940年、音楽家であり発明家でもあるジョージ・アンタイルと出会ったラマー。2人の話題は水雷に及びます。というのも当時、同盟軍の水雷はその誘導システムをナチスに妨害され、苦戦を強いられていました。ラマーは武器商人の元夫のおかげで兵器や誘導システムについて見聞きし独学で学んでもいたので、無線制御の水雷の原理を知っていたのです。

2人は、自動ピアノに取り付けて使用する演奏情報が穿孔されたピアノロールの仕組みをもとに、周波数ホッピングシステムの設計案を作成します。

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発明当時のメモ書きがこちら。

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こうして敵の干渉を受けない「さまざまな周波数の搬送波を使用する秘密通信システム」を開発、1942年特許を取得。米国軍にこの技術を採用して欲しいと申し出ますが、米国軍が実際にラマーとアンタイルのアイデアを活用したのは1962年、キューバ危機に際してでした。

第二次世界大戦当時米海軍は、女優で、それも当時まだ「敵国」からの移民だったラマーの発明を受け入れ難いとして、20年も棚上げされたのです。

ナチスの迫害と不幸な結婚から逃れたアメリカでは大成功を手に入れましたが、私生活ではパートナーに恵まれず結婚と離婚を繰り返しました。そして発明家としての功績が認められ「全米発明家殿堂」入りを果たしたのは、死後の2014年でした。

子どもたちに残した彼女の晩年の言葉が印象的です。「世界のために、できるだけのことをやってごらんなさい。すると顔面に蹴りを入れられるだろう。でもそれでもできるだけのことをやりなさい」

こちらの動画から、ヘディ・ラマーの物語、そして貴重な肉声もご確認いただけます。