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【すさまじい近親婚の果てに…】前編: スペインハプスブルク家最後の王カルロス2世を検死解剖した医師は絶句した

ヨーロッパで最も影響力があり、傑出した王家のひとつ、ハプスブルク家

スイス北東部のライン川上流を発祥とする小領主から始まり、1273年に神聖ローマ帝国皇帝に選出されるまで、弱小公国の主でしかなかったハプスブルク家が、ヨーロッパ随一の名門王家として栄華を極めるに至った背景には政略結婚による広大な領土の獲得がありました。

「戦争は他家に任せよ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の家訓が示すように、婚姻によってヨーロッパ諸国の王家と親戚関係を結ぶことで領土を飛躍的に増やしていったこの一族は、お家芸ともいわれる「結婚政策」によりヨーロッパ各地の公国や王家との政略結婚を押し進め、イギリス・フランス両国とローマ教皇庁領などを除くヨーロッパのほとんどの国々をハプスブルク家の支配下に治めました。

神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の治世には、ヨーロッパ、新大陸、フィリピンなどのアジア一部に跨がる「太陽の沈まない帝国」を築き上げ、ハプスブルク家は最盛期を迎えます。

あまりにも広大な領土の拡大に伴い、ハプスブルク家はスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に系統分化。

スペインとオーストリアそれぞれに王や皇帝が即位し分割統治することになり、カルロス1世の後を継いだ息子フェリペ2世によってスペインは黄金期を迎えます。いわばスペイン・ハプスブルク家が絶頂期を迎える礎いた優秀な君主であったカルロス1世でしたが、王家に栄光をもたらした彼の肖像は、一族の暗い行く末を暗示させるものでもあります。

異様に下顎が突き出した状態のカルロス1世の肖像画。

この画の一つ上の肖像もカルロス1世ですが、肖像画は実際よりもかなり美化して描かれているケースが多く、顎の突出も控えめに描かれていることを考慮しても…やはりまだ受け口気味です。カルロス1世は遺伝による下顎前突症で下顎の著しい突出により上顎の筋力の発育が未熟で、常に口を開いた状態だったと言われています。

受け口すぎてまともに口を閉じることができずいつも開いていたため、「ハエが入るので口を閉じてください。この土地のハエは無作法でございます!」と側近から注意されていたとの記述が残っています。口を開けっ放しだと王としての威厳にも関わる、それになによりもハエが口の中に入ったら不衛生この上ない!と側近なりに気を使ったんでしょうね…

後に「ハプスブルクの顎」と呼ばれる下顎前突症の長くしゃくれた顎は、16世期から18世期のハプスブルク家の王族によく見られる特徴です。

カルロス1世の祖父母である神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世と妻のブルゴーニュ公女マリーの肖像にも下顎前突症の特徴が見られます。カルロス2世の極端にしゃくれた顎は祖父母から受け継いだものだったのです。

程度の差こそあれ、下唇の突き出た受け口は後世のハプスブルク家一族にも多く見られ、女帝マリア・テレジアの娘であるマリー・アントワネットにも受け継がれています。

「長い顎と突き出した下唇はハプスブルクからの贈り物よ。不満を持たず、いつも微笑んでいる子に育てましょう。そうすれば下唇が目立たずにすむわ」と母マリアが娘を授かった当時の言葉が残っています。

近年の研究によって、この長くしゃくれた顎と突き出た下唇は長きにわたる政略結婚による近親交配の影響によるものだということが判明しています。しかし当時の王族の間では、近親間での政略結婚は財産の流失を防ぐためにもごく当たり前の習慣でした。とりわけ、他国との婚姻政策によって領土を広げてきた歴史を持つハプスブルク家はこの点を重要視しており、近親婚を奨励することで広大な領地が他家に流出することを防ごうとしたのです。

数世紀にわたって、叔父と姪、いとこ同士など、近親者間での血族結婚を繰り返したハプスブルク家。特に、南欧スペインに中欧出身の王族として君臨したスペイン・ハプスブルク家は領土を守る目的に加え、地元スペイン貴族に比べとりわけ白く血管が青く透けるような肌の「高貴な青い血」を守るためいとこ婚や叔父姪婚など狭い親族間での近親婚を重ねました。

ちなみにカルロス2世もいとこ婚。スペイン王家はスタートの段階からすでに近親婚街道をひた走っているも同然でした。

子供が次々と早世し世継ぎに恵まれず、3人の王妃にも先立たれたフェリペ2世は実の妹の娘である姪アナと結婚します。しかもアナの父親はフェリペ2世の従兄弟であるマキシミリアン2世。すでに濃縮されたハプスブルクの血が叔父姪婚により一層濃くスペイン王家に注がれることに。ローマ法王を押し切っての叔父姪婚はその後スペイン・ハプスブルク家では通例となり、わずか6代の治世の間に行われた11組の結婚のうち、9組が叔姪婚でした。

↓ 一般的には末広がりに枝分かれして広がっていくはずの家系図ですが、スペイン・ハプスブルク家では婚姻が一族の4親等・3親等間で繰り返され、ブドウの実のような形状を描いています

代を重ねるごとに、あまりにも濃く凝縮されていく血筋…その結果は代々のスペイン王族に如実に反映されています。生まれながらにして虚弱で夭折する子供が続出。優秀な君主として知られたカルロス1世、フェリペ2世に比べ、3代目君主のフェリペ3世は病弱で「怠惰王」と呼ばれ、4代目は家臣に政治を丸投げして、女遊びや娯楽に夢中なことから「無能王」と称される始末でした。

こちらの肖像画は フェリペ3世と4世。どちらもしゃくれを控えめに、かなり美化して盛って描かれているとはいえ、顎が長く突き出ています

唯一の世継ぎであった王子が16歳で亡くなり、8人の子供は次々と夭折、妻にも出産が原因で先立たれたフェリペ4世は世継ぎを残すため亡き息子の婚約者であった姪と結婚します。その結果、生まれたのがベラスケスの宮廷絵画で有名なマルガリータ王女、フェリペ王子でした。しかし待望の世継ぎであったフェリペ王子は4歳で死去。その数日後の1665年9月17日に生まれたのがカルロス2世でした。

王家断絶の危機を救った「希望の子」と称されたカルロス2世。しかし、その誕生にスペイン中が歓喜したものの、やがて希望は大きな失望へと変わります。

16世代にわたる近親交配の結果、一族の濃縮された血をさらにかけ合わせ生まれたカルロス2世は重度の奇形を持ち、生まれながらに病弱。癲癇などの病気を複数患ってただけでなく、知的障害も抱えていました。

幼少期は口をきくこともできず、知能の成長がみられず「衣服を着た動物のよう」な王子への教育を廷臣らは諦めざるを得ませんでした。そのため、カルロス2世は帝王教育はおろか、読み書きすらほとんど学ばずに育ちました。

また、一族の中でもとりわけ顕著な「ハプスブルクの顎」を持っており、まともに喋ることも食べることもままならず、常によだれを垂れ流していました。

いつしかカルロス2世の重度の奇形は呪いによるものだと迷信がささやかれるようになり、「希望の子」から「呪われた子」、やがては「呪われた王」と呼ばれるようになります。

近親婚の負の遺産を一身に背負ったかのような「呪われた王」カルロス2世の高貴な青い血に翻弄された生涯、続きは続編の【すさまじい近親婚の果てに…】後編: スペインハプスブルク家最後の王カルロス2世を検死解剖した医師は絶句したでご覧いただけます。

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