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ミステリー

彼女は何百人もの裸の少女を拷問し殺害した。その残酷さは今もなお語り継がれている。

あまりの残酷さから、歴史にいかがわしい悪名を残すほどの大量殺人者というのが史上何人かいます。19世紀のイギリスの猟奇殺人犯切り裂きジャック、20世紀初頭の殺人鬼アルバート・フィッシュや70年代のアメリカを震撼させたサイコ・キラー、テッド・バンディなどが有名どころでしょうか。そして、「血の伯爵夫人」として知られるエリザベート・バートリ(バートリ・エルジェーベト)もその内のひとりです。ハンガリーで1560年から1614年まで生きたバートリの物語は、まさに血も凍るおぞましさです。

エリザベートの物語は謎に包まれ、彼女の残虐行為の被害者数は何人なのかはっきりとはわかっていません。死亡者数を650名の若い女性とする説もあります。

エリザベートが政治的理由で15歳でフィレンツ・ナーダシュディ伯爵の元に嫁いだときから物語が始まります。嫁いだ当初から政略結婚に不満を持っていたエリザベートは、1604年にオスマン帝国との戦いでナーダシュディ伯爵が戦死したとの知らせを聞いても特に悲しまなかったと言います。夫の死後、エリザベートは全財産とナーダシュディ城を手に入れることになりました。

このときエリザベートの恐怖の統治が開始しました。エリザベートは近隣農村の娘たちを城内での仕事を約束しておびき寄せていたのではないかと推測されています。当初は領内の農村の娘たちを娘を誘拐し惨殺していましたが、やがて残虐行為は召使いや下級貴族の娘にも及ぶようになります。徐々に城内での残虐行為の噂が広まり、地元のルター派の牧師の告発をきっかけに、ある日ついに地域住民たちが城内へなだれ込みました。そこで何が起こったのかは定かではありませんが、エリザベートは邪悪な暴君であるという噂は永遠に刻み込まれました。

死亡した少女の人数ついて現代ではいくつかの相対する見解が出されています。「裁判」にかけられたとき、エリザベートは弁護のために話すことはなく、召使いたちだけが質問に答えました。召使いたちは、自身もエリザベートの拷問を受けていたことを証言し、80人近くの少女を殺害したことを認めました。証言によると、少女たちは衣類を剥ぎ取られ拘束されていたことが明らかになりました。残虐行為は鞭打つ、棒で殴る、刃物で切りつけるなどの他、つま先や歯茎に針を刺したり、性器や指を切断したり、熱湯で火傷を負わせれたり、赤く焼けたアイロンを当てたり、あるいは雪の中裸で立たされ冷水を浴びせるといった行為が含まれていいたということです。また、内側に鋭い棘を生やした球形の狭い檻の中に娘達を入れて天井から吊るし、娘達が身動きするたびに傷付くのを見て楽しむこともあったのだとか。こうした拷問を受けた36〜80人の少女たちが、怪我のために命を落としたとされています。

こうした召使いによる証言は拷問の末に得られたもののため、主張が正しいのかは未だにはっきりしていません。エリザベートが少女たちを拷問し殺害していたということは間違いなさそうですが、どれほど恐ろしいものだったのかはわかっていません。裁判の後、伯爵夫人が永遠の若さを手に入れるために被害者の血で風呂に入り、処女の血を飲んでいたという噂が囁かれました。

また650人の被害者の名前を記載した日記帳があるという噂もありましたが、実際にはこの日記帳は発見されていません。証言や証拠が一致していないにも関わらず、エリザベートは有罪の判決を受けます。共犯者たちは火あぶりの刑に処せられましたが、エリザベートは窓は無く食料を入れる隙間が空いているだけの牢屋に幽閉されました。4年後、エリザベートはそこで亡くなりました。

この驚くべき血の伯爵夫人の物語はたくさんの本や映画の創作のヒントとして扱われてきました。エリザベートに対する恐ろしい大量殺人者という解釈の先をもう少し深く読むと、この伯爵夫人は政治的に非常に重要な土地を所有していたために陰謀にかけられたのではないかという見方もあります。当時の多くの貴族たちが同じようなおぞましい行為をしていたのに、エリザベートが裁判にかけられたのは政治的な理由からでしかないという意見もあります。しかし、残念ながらもはや何が本当に起こったのか知る由はありません。血の伯爵夫人の物語が伝説めいて語られているのももっともです。