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ミステリー

吸血鬼夫人バートリ・エルジェーベトの伝説とその背景

吸血鬼といえば「ドラキュラ伯爵」が有名ですが、女性吸血鬼の最初のモデルとなった実在の人物がいるのをご存知でしょうか。ハンガリーの貴族で「血の伯爵夫人」の異名を持つバートリ伯爵夫人です。

バートリはおびただしい数の若い娘をさらい、城で拷問し、生娘の血で満たしたバスタブで入浴したという残酷極まりない狂気の貴族として歴史に名を残しています。しかし、ドラキュラ伝説もそうですが、よくよく調べてみると本当のところは少し違うようです。

 

バートリ・エルジェーベト(エリザベート・バートリ)は、1560年にハンガリーの有力貴族の娘として生まれ、わずか14歳で5歳年上のナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚しました。結婚式の後、エルジェーベトはナーダシュディ家所有のチェイテ城に移り住み、夫の属するルター派に改宗しました。

若くして結婚したものの、夫フランツは戦争指揮官として忙しく、ほとんど家にいません。エルジェーベトはひとり、夫の留守中の城と荘園を管理しました。彼女は経営者としての手腕があったようで、財産は増え、やがてハンガリー王は戦争の資金調達のためにナーダシュディ家に多額の借金をするようになったほどです。

1604年1月4日にフランツが病気で亡くなると、エルジェーベトは彼の全財産を相続します。子どものいなかった彼女の兄も、遺言で彼女に多大な財産を贈っていました。ハンガリーで最も有力な貴族であり、最も裕福な人の一人となったエルジェーベト。再婚はしませんでしたが、3人の子どもを戦略的に結婚させ、同族からは大きな尊敬を得ていました。

そんなバートリ伯爵夫人は農民たちからは非常に恐れられていました。領内を馬で走る彼女から逃げ遅れると鞭で叩かれるからです。チェイテ城で侍女や召使いとなった娘は二度と戻ってこないという噂もありました。

17世紀に入ると、ルター派の貴族とカトリックのハプスブルク家との間で戦争が起こり、バートリ家も巻き込まれていきます。1608年、親族のガブリエル・バートリが国王に対抗する作戦を準備したとき、エルジェーベトは全国に散らばる城から武装した騎兵を送り込み、彼を支援しようと考えていました。

しかし、1610年12月29日、ハンガリー副王トゥルゾー・ジェルジ伯爵がチェイテ城を襲撃して捜索したことで、彼女はその手を打つことができなくなります。トゥルゾーはこれまでも何人もの金持ちの未亡人を味方から孤立させ、様々な言いがかりをつけて評判を落とし、財産を奪っていました。バートリ伯爵夫人は、この手口をよく知っており、数年前にトゥルゾーに手紙を出して、有力貴族である自分は彼の陰謀にはまらないとさえ書いていたのです。

しかし、トゥルゾーがチェイテ城の捜索で見つけたものは、国を揺るがす大きな訴訟につながります。彼が城に入ってすぐに見つけたのは幾人もの少女の死体や拷問の跡。伯爵夫人は、侍女としての雇用を約束して国中の娘たちを誘い出し、ひどい拷問と殺害を行っていたのです。娘たちの遺体には殴打や鞭打ちの跡、ハサミや針による傷、熱い鉄や熱湯による火傷などがありました。

今日、歴史家はエルジェーベトを残酷な連続殺人者とみなしています。しかし、17世紀のハンガリーでは、貴族の領主による使用人の虐待や殺害は当たり前のように行われていました。バートリの残虐性は他の貴族よりも明らかに過剰でしたが、彼女が領内の農民の娘たちへの暴力に限定していれば、トゥルゾーの策略により彼女の裁判が始まることはなかったと考えられています。

しかしエルジェーベトは農民の娘だけでは飽き足らず、歌手のヘレーネ・ハルツィなど、ハンガリーの下級貴族の女性たちも殺害していました。貴族の娘たちを襲ったことで、エルジェーベトは一線を超えたとみなされ、親族の有力貴族たちも彼女をかばうことができなかったようです。

バートリ・エルジェーベトは、使用人を殺害した容疑で逮捕されました。裁判中、彼女は出廷も証言も許されませんでした。裁判は共犯者や目撃者の証言のみで成り立っており、自発的な証言もあれば、拷問の末に強制的に出されたものもありました。なかでも、バートリの子どもたちの乳母ヘレナ、長年侍女を務めたドロテア、世話役のヨハネスの証言が決定的でした。ドロテアは36人の娘が殺されたと証言し、別の証人は80人以上の犠牲者がいたとも証言しました。

裁判の結果、共犯者としてドロテアとヘレナはまず前足の指を切り落とされた後、二人とも生きたまま火あぶりの刑に処され、ヨハネスは斬首されます。一方、エルジェーベトは貴族の処刑を避けるためにチャイテ城での終生軟禁を言い渡されました。

エルジェーベトは塔の中の寝室を壁で囲われ、壁に開けられた小さな穴から食べ物や水を与えられただけの状態で、1614年8月21日に亡くなるまで、約3年間そこに住んでいたとされています。

では、現在のエルジェーベトの「血に飢えた吸血鬼」というイメージはどこから来たのでしょう。実は「血の伯爵夫人」の伝説は、裁判から100年以上経ってから作られたものでした。

1729年、イエズス会の修道士であるラースロー・トゥーロチは、エルジェーベトの犯罪をプロテスタントの悪しき例としてパンフレットに描きます。そのとき、彼は、バートリ伯爵夫人の狂気の原因を、ルター派の福音主義的な信仰と女性の虚栄心にあると考え、その文章の中で、処女の血を浴びたという不気味な話を創り上げたのです。

パンフレットにはこう書かれています。「ある時、折檻した次女の血がエルジェーベトの手の甲にかかった。その血を拭き取ると肌が若返ったように見える。それ以来、エルジェーベトは若い処女の血液を求めるようになり、城の侍女をはじめ、領民の娘をさらっては生き血を絞り、血が温かいうちにバスタブに満たし、その中に身を浸すという残虐極まりない行為を繰り返した」

このような事実は裁判資料には一切書かれておらず、これはラースローの創作だと分かっています。しかし、この誇張されたホラーなイメージは、後続の著者たちに多大なインスピレーションを与え、多くの史書や文学作品が生まれました。1817年にオリジナルの裁判資料が出版された後も、血の伯爵夫人の伝説は続き、バートリ・エルジェーベトといえば血の入ったバスタブで裸でのたうちまわる伯爵夫人のイメージが確立されていきました。

この物語はその後も数え切れないほど再解釈され、膨大な数の小説や映画に影響を与えることになります。こうして、エリザベート・バートリという実在の人物は、吸血鬼という人気ジャンルにおいて「ドラキュラ伯爵」に対抗する伝説的な「血の伯爵夫人」となったのです。

現在、チェイテ城は心霊スポットとしてホラー好きな観光客に知られています。そこでは「自分の行動に責任を負う必要はない」と信じて疑わなかった人間のサディスティックな残虐性の犠牲になった何十人もの(何百人とも言われています)名もなき若い娘たちの霊が今も彷徨っていると言われています。

 

プレビュー画像: ©Facebook/Court TV Mystery