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ミステリー

1946年にドイツでこの世を去った男 しかし平成元年 新聞の尋ね人欄に掲載された名に遺族は目を疑った

1989年12月14日、朝日新聞の「尋ね人欄」にある記事が投稿されます。そこにはこう書かれていました。

「日本人医師・故コエヌマノブツグをご存知の方はいませんか。」

それは日本から遥か9000キロ離れたドイツ東部の街ヴリーツェンの住民が、ある日本人を探しているという内容の記事でした。投稿主は桃山学院大学の村田全(むらた・たもつ)教授。当時ベルリンにあるフンボルト大学の客員教授だった村田教授に、ヴリーツェン市の郷土史家であるシュモーク博士が、住民の証言を集めながら「コエヌマ」という人物に関してのリサーチを進める上で、この記事の投稿を依頼したのです。

果たしてヴリーツェンの住民が探している「コエヌマ」とはどのような人物だったのでしょうか。そして、遠いドイツの人たちはなぜこの日本人を探していたのでしょうか。

肥沼信次

今から80年前の1937年、当時医学の分野で世界の最先端をいくドイツ・ベルリンにあるロベルト・コッホ研究所に、ある1人の日本人の若者が留学します。彼こそ当時27歳の肥沼信次でした。東京・八王子の外科医の家に生まれ、日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へ進んだ優秀な肥沼はその後、1944年にベルリン大学医学部放射線研究補助員として採用され、ベルリン大学医学部で東洋人として初の教授資格を取得。しかし希望に満ち溢れ、将来有望と思われた肥沼の前に着々と戦争の暗い影が忍び寄ります。

時は1945年。ソ連軍が東からドイツの首都ベルリンへと進撃。ナチスの敗北が色濃くなった同年3月17日、在ベルリン日本大使館は首都の陥落は時間の問題と見て当時残っていた日本人全員に国外退避命令を出します。肥沼も勿論例外ではなく、退避命令の出た翌日の午後3時まで大使館へ来るよう命じられました。ベルリンで医療の研究を続けたい肥沼の想いは、こうして戦争という現実によって打ち砕かれてしまったのです。

しかし翌日在ベルリン大使館の職員が肥沼の姿を目にする事はありませんでした。

肥沼はドイツにいた方がきっと人の役に立つ事が出来ると日本への帰国をやめ、ベルリンから東へ約40キロ程のところにある街、エバースヴァルデへと向かいました。彼がエバースヴァルでに赴いたのにはシュナイダー夫人というドイツ軍人の旦那を無くした未亡人の女性が関係しているとも言われていますが、彼女と肥沼の正確な関係性については今日まではっきりとはしていません。

エバースヴァルデで暮らし始めて程なくして、肥沼の元にソ連軍地区司令部のシュバリング司令官からある手紙が届きます。その手紙の中には肥沼の運命を変えるある指令が入っていました。

Historical document

その指令とはエバースヴァルデから南東へ30Kmほどの所にあるヴリーツェンに新設される「伝染病医療センター」の所長に任命するというものでした。1945年9月に医院長に就任した肥沼は治療の日々を開始します。

こうして彼は日本へ帰るという選択肢を自ら捨て、ドイツの地に残って病に苦しむ人たちを助ける道を自ら選んだのです。

旧伝染病医療センター・現ヴリーツェン市庁舎

新設されたと言っても、ヴリーツェンの医療センターは十分な設備が整っているとは到底言えない状況でした。医師は肥沼たった1人で、その他に看護師が7人いるだけでした。看護師のうち5人は、センターで働き始めてすぐ発疹チフスに命を落としてしまいます。この街は当時伝染病地域に指定されるほど発疹チフスが猛威を振るい、大量の犠牲者が出ていたのです。

発疹チフスは当時治療法が確立しておらず、不治の病と恐れられていた病気でした。センター中に溢れる患者たちの前に、看護師たちは思わず立ちすくんでしまったそうですが、肥沼だけは違ったと、看護師の1人ヨハンナ・フィドラーは後に証言しています。彼は恐ろしい病に侵された患者たちを目の前にして少しもひるむ事なく、自分から患者の手をとり励ましながら1人1人に声をかけ、最も症状の重い人から治療を始めました。

医療活動はセンターの中にとどまらず、治療の合間に肥沼は周辺の町に往診に出向き、自宅にも診療所を設けるなど睡眠2時間ほどの過酷な状況下で診察を続けました。

腸チフス

そんな肥沼の献身的な姿勢を表すようなエピソードが存在します。

肥沼が診察を行う伝染病医療センターに1945年9月末に、発疹チフスの末期症状を発症している5歳の少女、ギゼラ・ヴォイツェクが運ばれてきました。すぐにでも投薬治療を始めないといけない瀕死の状態でした。薬局が進行してきたソ連軍とドイツ軍との戦闘で破壊されてしまったリーツェンには薬が全くと言って良いほど残っておらず、ギゼラの命は風前の灯のように思われました。しかし、肥沼はリーツェンから2日かかるソ連軍の野戦病院へ薬をもらいに行く事を決心します。なんとか辿り着いた野戦病院でソ連軍の医師からはじめは薬を譲り受ける事を断られる肥沼ですが、必死の説得で想いが通じたのか、抱えられるだけの薬を手に肥沼はギゼラの元へ足を急ぎます。そして肥沼の必死の看病の甲斐あってギゼラは奇跡的に命をとりとめました。後に、彼女は大学へ行き薬剤師となったそうです。

そんな肥沼も1946年1月、ついに発疹チフスを患ってしまいます。過労が原因で体力が限界に達していた肥沼の身体を死の病は容赦なく蝕んでいました。それにも関わらず症状を自覚してからも彼は努めて明るく振る舞い、患者にはいつも笑顔で接し続けました。

しかし同年3月2日ついに病床に倒れ、その数日後肥沼は37年の短い一生を終えました。死の床で彼が最後に口にした言葉、それは「桜をもう一度見たかった、みんなに桜を見せてあげたかった」でした。故国・日本へ帰ることを諦め、遠いドイツの地で奉仕活動にその一生を捧げた肥沼も死を前にして、美しい桜を最期に一目見たかったのでしょう。

それから43年後の1989年、新聞記事を目にした肥沼の弟の英治さんは、これをきっかけに兄の消息を戦後初めて知ることになります。その後、1994年にヴリーツェンを訪れ、兄の最期の言葉を知った英治さんは街に100本の桜を送りました。

ヴリーツェンには肥沼の墓があり、毎年慰霊祭が催されるなど彼の残した軌跡は街の人々に大切に守られています。毎年春になると墓の周りはもちろん、ヴリーツェンの街中に美しい桜の花が開きます。それを見てきっと肥沼は、死の直前まで絶やすことのなかったあの満面の笑顔をたたえながら、誇らしげに思うことでしょう。そして来年の春もまた、肥沼の桜はヴリーツェンの街を美しく彩ります。

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