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アンビリーバボー

【ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人】ギロチン台を前に必死で命乞いをした前国王愛人

「待って待って、殺さないで!お願いだから!」
1793年12月8日、見物に押し寄せた群衆ひしめくコンコルド広場の処刑場で、ギロチンを前に髪を振り乱して泣き叫び、必死に懇願する一人の女性がいました。目を見開き怯え切った顔には、かつてヴェルサイユきっての美女と讃えられた面影はありません。

彼女の名はデュ・バリー夫人。前国王ルイ15世の愛妾であったことから、死刑宣告を受け、今まさに断頭台の露と消えようとしていました。

実は彼女は平民出身。本体ならば市井の人々同様に、重罪でも犯さない限り断頭台とは無縁の人生を送るはずでした。恐怖政治が支配したフランス革命当時、貴族などの支配階級や反革命勢力が立つはずの断頭台になぜ彼女が送られることになったのか、時代の運命に翻弄されたデュ・バリー夫人の生涯を紹介します。

時代の運命に翻弄された女性デュ・バリー夫人の生涯

デュ・バリー夫人を歴史の表舞台に引き上げたのは、フランス史きっての絶倫王・ルイ15世。政治よりも女。「鹿の園」なる美女ハーレムや数多くの貴婦人との華麗なる恋愛遍歴…多くの愛人との派手な女性関係を繰り広げた好色王です。

彼の歴代の寵姫の中でも名高い貴婦人といえば、ポンパドゥール夫人が有名ですが、もう一人、忘れてはいけない人物がいます。デュ・バリー夫人貧しい家庭に生まれ、美貌を武器に国王愛人の座にまでのし上がった、ルイ15世の最後の公妾(国が認める王の公式な愛人)です。

かの有名な漫画「ベルサイユのばら」通称ベルばらでは、マリー・アントワネットとベルサイユを舞台に皇太子妃 vs 愛人のバトルを繰り広げる高慢ちきな悪役的立ち位置で描かれていますが、実際の人物像は陰謀術数に長けた悪女キャラとは程遠く、天真爛漫で親しみやすい女性だったようです。

(↓「ベルばら」で悪女枠を演じるデュ・バリー夫人)

もうろくしたスケベ国王を妖艶な色香で惑わし、その寵愛をいいことに権力を振りざし我儘&贅沢し放題の悪女、ヴェルサイユの妖婦…そんな誤解と偏見に満ちた印象を抱かれがちなデュ・バリー夫人の実像に迫ります。

(↓ こちらはルイ15世の時代から約100年後、1874年に想像で描かれたデュ・バリー夫人とルイ15世。エロジジイ国王を転がす若い美女の図…すでに悪女のイメージが出来上がっています)

貧しい庶民の家庭に私生児として生まれる

デュ・バリー夫人、本名マリ=ジャンヌ・ベキューは1743年8月19日、フランス・シャンパーニュ地方の貧しい家庭に私生児として生まれました。弟が生まれてまもなく、あろうことか母は駆け落ち。残された幼いジャンヌと弟は叔母に育てられます。

7歳のときに再婚した母に引き取られたジャンヌは、金融業を営む裕福な継父のもとで愛情を注がれて育ち、当時の庶民としては珍しくしっかりと教育をうけ、当時はブルジョワ家庭以上の子女しか入ることができなかったサントゥール修道院で語学や歴史、音楽などを学びます。

15歳で修道院での教育を終えると、富裕階級の屋敷で侍女として働き始めます。しかし、程なくして素行上の問題から解雇されてしまいます。

当時10代のジャンヌは誰もが目を見張るような超絶美少女。形よく整った輪郭に優しげな美しい青い瞳と小さな鼻が上品に収まり、ブロンドの髪と陶器のような白い肌がその美貌を引き立てていました。

ジャンヌの魅力にすっかり夢中になってしまった奉公先の息子たちから一方的に想いを寄せられ、怒った女主人によってクビを言い渡されてしまったのです。

類稀なる美貌ゆえに…人生を変える出会い

その後、「ア・ラ・トワレット」という高級洋裁店で働き始めるも、その美貌は評判を呼び、彼女目当てにお金持ちの男性客が押し寄せるほど。愛嬌たっぷりでオープンな性格のジャンヌは口説いてくる男性顧客を無下にすることなく、恋愛遍歴を重ねていきました。

そんな折、出会ったのがデュ・バリー子爵です。裕福な子爵に囲われ、愛人として貴婦人のようなに暮らし始めます。しかし、このデュ・バリー子爵、実は相当な変態。特殊な性癖の持ち主で、贅沢な暮らしと引き換えにジャンヌに自分が連れてくる男性とベッドを共にするよう要求するとんでも野郎でした。しかし、開放的な性格であまり深く物事を考えることのないジャンヌは、子爵に言われるがままに幾人もの男性と肉体関係を持ちます。

子爵が連れてくる男性はいずれも家柄のよい貴族や学者、博識なアカデミー・フランセーズの会員など上流階級出身者ばかり。そのため、ジャンヌは持ち前のコミュ力の高さを生かし、彼らから、上流社交界で必要な立居振る舞いや会話術などのノウハウを自ずと学んでいきました。

美しく朗らかで親しみやすいジャンヌは子爵家に出入りする上流階級貴族の間でも評判となり、1769年には子爵の友人で国王ルイ15世の寵臣であるリシュリュー公爵を介してルイ15世に紹介されます。

とんとん拍子でヴェルサイユへ、娼婦から王の公妾に

5年前に公妾ポンパドゥール夫人を亡くし、これといって決まった寵姫も持たず女性たちと浮き名を流していたルイ15世はたちまち若く美しいジャンヌの魅力の虜に。

当時、ジャンヌは25歳。一方ルイ15世は59歳。華やかな美貌に加え、何事にも臆せず、朗らかで明るい性格のジャンヌにすっかり魅了された国王は、早速ジャンヌをベルサイユ宮殿に迎え入れ、公妾の地位につけることを即決。

「公妾は既婚者であるべき」という慣例に従い、ジャンヌは形式上デュ・バリー子爵の独身の弟と結婚して「デュ・バリー夫人」と名乗り、ヴェルサイユ宮殿の社交界に華々しくデビューします。

(↓ 公妾となって間もない頃のデュ・バリー夫人)

伏魔殿のようなヴェルサイユでコミュ力の高さと性格の良さを発揮

通常、公妾は貴族から選ばれるのが暗黙の了解。デュ・バリー夫人の前の公妾であったポンパドゥール夫人も平民出身ではありましたが、彼女は同じ平民でも上流のブルジョワ家庭出身。運よく教育を受けることはできたとはいえ、平民の貧困層出身で囲われものとして娼婦まがいのことをしていたデュ・バリー夫人に対する上流貴族たちの風当たりは相当厳しいものがありました。

国王の寵愛を受けているとはいえ、由緒ある大貴族たちから宮廷で無視されたりイジメられたりなど日常茶飯事。

「娼婦上がり」「貧民出身のくせに」と陰口を叩かれる日々。普通なら中傷攻撃にすっかり精神をやられて参ってしまうかもしれません。しかし、デュ・バリー夫人は違いました。底抜けに明るく、親しみやすく前向き、人の悪口を言わない裏表のない天真爛漫な性格で次第に周囲の貴族たちの心を溶かしていきます。

足の引っ張り合いは当たり前、計算高く相手によって態度をコロコロ変える貴族も多い中、誠実で誰にでも分け隔てなく接するデュ・バリー夫人に対し、好意的に見る宮廷貴族も徐々に増え、いつしか宮廷の愛されキャラに。人気者へとなっていくのです。

デュ・バリー夫人を寵愛するルイ15世は亡きポンパドゥール夫人が自分のために作ったハーレム「鹿の園」を閉鎖。デュ・バリー夫人は王の寵愛を一身に受け、まさに一人勝ち状態。我が世の春を謳歌しますが、決して驕り高ぶることはなく、気さくな人柄は変わることはありませんでした。

ポンパドゥール夫人のように政治や権力を握ることには興味を示さず、「美しいドレスを着て美味しいものを食べて素敵な宮殿で日々を楽しく過ごしたいだけ」という単純明快で分かりやすい性格も幸いし、派閥争いに巻き込まれたり無駄に敵を作ることもありませんでした。

「皇太子妃 vs 愛妾」騒動勃発!

陽気で人の良い性格とコミュ力の高さで魑魅魍魎が跋扈するヴェルサイユ宮殿で自分の居場所を築いていったデュ・バリー夫人。

しかしながら、中には彼女を快く思わない王侯貴族もいました。特に彼女に対して一方的に敵対心を抱いていたのがルイ15世の娘たち、アデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女です。

その頃、フランスへ輿入れしてきたのが王太子妃マリー・アントワネット。彼女は公式の場で堂々と王の隣に愛妾が臨席しているのを目の当たりにして仰天。自国にはないフランスの「公妾」という制度に戸惑い、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響もあり現愛妾で元娼婦であるデュ・バリー夫人に対して嫌悪感を抱いていました。

(↓ 嫁いで間もない頃のマリー・アントワネット)

そこに目をつけたルイ15世の3人娘は、義理の姪にあたる14歳のマリー・アントワネットをそそのかし、デュ・バリー夫人を徹底的に無視させます。当時、フランス宮廷では「身分の低い者が自分よりも身分の高い者に先に声をかけてはならない」という謎ルールがありました。

マリー・アントワネットが声をかけない限り、デュ・バリー夫人から話しかけることはもちろん、挨拶することすら許されません。

公の場での無視はまるで社交界における公開処刑そのもの。意地悪やり手ババアのごとく、裏で糸を引く義理の叔母3人衆。彼女たちの指導を受けたマリー・アントワネットによる公開無視は2年間にも及び続きました。

ついに耐えられなくなったデュ・バリー夫人はルイ15世に泣きつきます。公の場で堂々と公妾を軽んじられたルイ15世は激怒。オーストリア大使に圧力をかけ、マリー・アントワネットは母マリア・テレジアから「声くらいかけておやり」と手紙でたしなめられてしまいます。

フランス・オーストリア両国を巻き込む「皇太子妃 vs 愛妾」騒動へと発展したこの一件は、結局マリー・アントワネットが折れ、デュ・バリー夫人に「今日のヴェルサイユは大変な人ですこと」とあらかじめ決められたセリフで話しかけることで決着が付きました。

皇太子妃をも屈服させる、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのデュ・バリー夫人。それでも調子に乗って高飛車な態度になることもなく、相変わらず宮廷サロンでは多くの貴族たちから好かれる人気者キャラでした。

マリー・アントワネットとの一件が収束したのちも、デュ・バリー夫人はマリー・アントワネットが欲しがっている宝飾類をプレゼントすると申し出るなど、気配りを欠かさなかったようです。

ルイ15世崩御によりヴェルサイユ追放

しかし、そんなヴェルサイユでの栄光の日々も突然終わりを告げます。

1774年5月10日、ルイ15世が天然痘により死去。

デュ・バリー夫人は感染のリスクも顧みず、懸命に王を看病したとも言われていますが、病状が悪化し死を悟った王は、神父の勧めに従い神への懺悔のためにデュ・バリー夫人を宮廷から立ち退かせます。

自分亡き後もデュ・バリー夫人が安泰な生活が送れるよう配慮せよとルイ15世は側近たちに言い残しますが、ルイ15世崩御後、デュ・バリー夫人は修道院送りに。これまでの贅沢で煌びやかな日々とは一転、質素・禁欲を美徳とする修道院での軟禁生活が始まったのです。

ルイ15世から贈られた城や豪華な宝飾品などを含む莫大な資金は全て凍結されてしまいました。

しかし、そこは人柄の良さで欲望と陰謀が渦巻くヴェルサイユでも人望を得ることに成功したデュ・バリー夫人。素直で順応性が高く、修道院での生活にもすぐに馴染んでいきます。当初は前国王の元愛妾であることから、デュ・バリー夫人に嫌悪感を抱いていた修道女たちも、快活で優しい人柄の彼女と打ち解け、ここでも「親しまれキャラ」として愛されるようになります。

パリ郊外の屋敷で悠々自適の優雅な暮らし

性格の良さと持ち前の高いコミュ力で修道院をすっかり味方につけたデュ・バリー夫人。修道院長がルイ16世にデュ・バリー夫人の軟禁を解いて待遇を上げるよう、直々に手紙を書いたこともあり、その後、修道院を出てパリ郊外の屋敷で悠々自適の生活を始めます。

凍結されていた資産も返してもらい、ヴェルサイユ時代に築き上げてきた人脈を駆使、当時の宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官など支援を得て優雅な暮らしを送ります。

中年期に入るとやや肥満体となり美貌にかげりは出るものの、華やかで天真爛漫な人柄の良さから男女問わず人を惹きつける「愛されるキャラ」は健在。ド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達など、上流貴族の愛人ライフを送っていました。

この頃にはマリー・アントワネットもすっかりデュ・バリー夫人に心を許し、王妃お抱えの肖像画家であり友人でもあるルブラン夫人デュ・バリー夫人肖像画を描くほど、良好な関係を築いていたようです。

(↓ 1789年にルブラン夫人によって描かれた中年期のデュ・バリー夫人)

潤沢な資産に、周囲を魅了してやまない人柄、このまま老後まで安泰…そう見えたデュ・バリー夫人の人生でしたが、そうは問屋がおろしませんでした。

フランス革命勃発。狂い出す歯車

1789年、フランス革命が勃発。

当時の愛人だったパリ軍の司令官・ブリサック元帥が暴徒と化した民衆によって虐殺されてしまい、悲嘆に暮れるデュ・バリー夫人は1791年1月にイギリスに亡命します。

亡命先のロンドンでは、その後もフランス周囲から亡命してくる貴族たちを経済面で援助します。

フランスでは革命勢力ジャコバン派による恐怖政治が本格化し、国王夫妻を含め、多くの王党派貴族や革命に批判的な反対派が多数処刑されました。ギロチンはいつもフル稼働。コンコルド広場に集う民衆にとって、公開処刑は見慣れた日常風景の一つとなりつつありました。

(↓ 1791年1月、当時「革命広場」と呼ばれた現コンコルド広場でのルイ16世の処刑風景。最後まで毅然と王としての威厳を持って死に臨みました。)

革命の炎が燃え上がるフランス。海を隔てたイギリスにいれば安全なはずでした。しかし、なぜか1793年3月、デュ・バリー夫人はフランスに舞い戻り、革命軍に捕われてしまうのです。

革命が過激化し、貴族や特権階級にはデンジャラスゾーンと化したフランスになぜ危険を冒して帰国したのか?

「革命政府によって差し押さえられた自分の城に保管していた宝石や美術品を取り戻すため」という説もありますが、定かではありません。

監禁、そして死刑宣告

捕らえられたデュ・バリー夫人は当時「死の控え室」と呼ばれたコンシェルジュリー牢獄に入れられます。

(↓ 同じコンシェルジュリーに収容されたマリー・アントワネット。彼女は1793年10月16日に処刑されました)

この牢獄に入ることは、その先に死刑が待ち受けていることを意味していました。しかし、前向きな性格のデュ・バリー夫人は「同じ平民出身である自分を民衆が殺すはずがない」とどこか信じていたようで、自分が所有する宝石をあげるから助けてほしいと呑気に訴えていました。

女遊びと贅沢三昧で悪名高い前国王の愛人、ましてや公妾であれば民衆にとっては憎悪の象徴であり、スケープゴートとして格好のターゲットであることをデュ・バリー夫人は自覚していなかったのかもしれません。

一方的な裁判によって死刑が宣告され、同年12月7日、刑が執行されます。

そして死刑執行当日…

死刑執行当日、自分が本当に処刑されることを知ったデュ・バリー夫人はギロチン台に向かう際、集まった群衆に必死に命乞いをし続けました。

(↓ コンシェルジュリー牢獄から処刑場へと連れていかれるデュ・バリー夫人)

これまで断頭台に数多くの貴族が上り、公開処刑されてきました。最期まで凛として気高く死に向かった彼らとは対照的に、恐怖のあまりすっかり取り乱し、泣き叫び懸命に助命を乞うデュ・バリー夫人の姿は、ギロチン処刑を見物しようと集まった群衆にとって衝撃的なものでした。

恐怖に慄き、断頭台に上ることもできず、涙で顔をグシャグシャにしたデュ・バリー夫人は無理矢理断頭台に上らされると、悲鳴をあげて処刑台の上を逃げ回ったそうです。

処刑台の上で彼女を待っていたのは、かつて公妾になる前の知人であった死刑執行人のアンリ・サンソン

助けを求め、泣いて命乞いをするデュ・バリー夫人を前に、サンソンは耐えられず息子に代わりに刑の執行を委ねます。(サンソンとデュ・バリー夫人はかつて恋人同士であったという説もありますが、定かではありません)

最後の最後までデュ・バリー夫人は暴れ必死の抵抗を続けました。3人がかりでギロチンの台に押さえ込まれ首を固定されても、無実を訴え叫び続けました。

(↓ こちらは押し寄せた群衆の前で処刑されるマリー・アントワネット。最期まで女王としての気品を保ち、断頭台の上でサンソンの靴を踏んでしまった際には「「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」と謝ったと言われています)

いつもなら威厳を守ったまま毅然と処刑台に上る貴族たちに対し、ヤジを飛ばし、刑執行後に歓声を上げる群衆ですが、この日、処刑台の上で最期の瞬間まで泣き叫び必死に命乞いをするデュ・バリー夫人の姿を見て嘲る者はいませんでした。

広場に響くデュ・バリー夫人の断末魔のような叫び声。

しかしそれもギロチンの刃が落ちる音とともに、消えました。

貧民層出身ながら、その類まれな美しさと天性の朗らかさでヴェルサイユで栄華を極めた一人の女性の生涯はこうして幕を閉じました。

「処刑される者皆デュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、民衆も事の重大さに気付き、恐怖政治ももっと早く終わっていたのではないだろうか」

アンリ・サンソンは手記にこのように書き残しています。

上の肖像画を含め、デュ・バリー夫人の肖像画を複数描いたルブラン夫人は回想録でこう述べています。

「私が確信したのは、もしこの凄まじい時期の犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう」

ヴェルサイユ宮殿での栄光の日々、そして断頭台で迎えた壮絶な最期。時代に翻弄されつつも、人柄の良さで乗り切ってきたデュ・バリー夫人の50年の生涯。もし、亡命先のイギリスからフランスに戻らなければ、あるいは生まれる時代が少し違えば、彼女の人生は最期まできっと穏やかで幸福なものであったのかもしれません。

出典: zepcy.com

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