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被写体の女性が語る 世界的に著名な写真「出稼ぎ労働者の母」の裏側の物語

写真家ドロシア・ラングが撮影した「Migrant Mother(出稼ぎ労働者の母)」は世界的に有名な写真なので、皆さんもご覧になったことがあるかもしれません。

写っているのは、粗末な布に包んだ乳飲み子を抱き、疲れきった女性の姿。少し大きな二人の子どもたちは母親に隠れるように立ち、顔を背けています。

女性のどこか遠くを見つめる憂いを帯びた表情、思慮深さを感じさせる眼差しは、自分と家族のためにどうやって生きていけばいいのかわからないままに必死に生きていることを想起させます。時代を超えて見るものの心に訴える力がある写真です。

この写真は世界大恐慌に揺れる1936年にアメリカで撮影されました。撮影後、瞬く間に有名になった写真ですが、被写体の女性のストーリーは撮影から40年以上経ってようやく判明しました。この女性はフローレンス・オーウェン・トンプソン。当時32歳でした。

フローレンスは、1903年にアメリカのオクラホマ州にあるチェロキー族の居留地で生まれました。家族は農業で生計を立てていました。若い頃、農家に嫁いだ彼女は、数年後、夫と3人の子どもを連れてカリフォルニア州のオロビルに移り住み、地元の製材所で働くことになりました。

しかし、1929年の株式市場の大暴落により経済は大きな打撃を受けました。「世界大恐慌」と呼ばれる歴史に残る時代の始まりです。経済は崩壊し、数え切れないほどの人々が職を失いました。

フローレンスの家族も職を失い、仕事を求めて北へ向かいましたが、その途中で夫が結核に倒れ、わずか32歳で亡くなってしまいました。未亡人となったフローレンスには5人の子どもがおり、6人目を妊娠中でした。フローレンスは同じように仕事を求めて各地を放浪していた両親のもとに身を寄せましたが、収容所やバラックを移り歩く生活。わずかな稼ぎでは家族全員を十分に養うことができず、常に飢えと戦っていました。

その後、フローレンスはロサンゼルスで肉屋を営む男性と一緒に暮らしはじめました。当時の女性は避妊具を手に入れることができず、避妊に関する知識もほとんどありません。彼女は1935年にはすでに10人の子どもの母親になっていました。その後、彼女は夫に捨てられ、住まいを失い、子どもたちと一緒に橋の下で寝ることもしばしばあったといいます。

1936年3月9日、フローレンスと子どもたちは、カリフォルニア州ニンポでエンドウ豆摘みの仕事のためキャンプに滞在していました。そのとき、突然、1台の車がやってきました。今よりもさらにステータスシンボルであったピカピカの新車から出てきたのは、身なりのいい一人の女性。彼女は大きなカメラで、末っ子のキャサリン(4歳)、ルビー(5歳)、ノーマ(1歳)と一緒に休んでいるフローレンスを勝手に撮影し始めました。

フローレンスはカメラマンを極力無視しました。カメラマンは何枚もの写真を撮った後、彼女に近づき、自己紹介をしました。「こんにちは、私はドロシア・ラングです。農業保障局で働いており、出稼ぎ労働者の窮状を記録しています。写真は絶対に公開しません、約束します」フローレンスは、お金持ちの女性に「あなたがそれがいいと思うならそれでいいわよ」と答えました。ドロシアは車に戻ると、それ以上何も言わずに走り去っていきました。

驚くべきことに、フローレンスの写真がサンフランシスコ・ニュースに掲載されたのはその翌日のことでした。記事の見出しは「ボロボロで、飢えて、お金もない。エンドウ豆摘み人の悲惨な生活」この印象的な写真は、あっという間にアメリカ全土に広まり、出稼ぎ労働者の窮状も知られることになりました。そのため、記事が出た数日後にはエンドウ豆摘みのキャンプに連邦政府から20,000ポンド (9,100 kg)もの食料が届けられたのです。しかしフローレンスはすでに仕事と食料を求めて移動していました。

この『出稼ぎ労働者の母』と呼ばれる写真で、写真家ドロシア・ラングは一躍時の人となり、世界的な名声を得ました。この写真は芸術作品として評価され、博物館や美術館に数え切れないほど展示され、多くの書籍にも掲載されています。現在、35×27cmのプリントがカリフォルニア州マリブのJ・ポール・ゲティ美術館に展示されています。

1960年、ドロシアはこの有名な写真がどのようにして生まれたかを語っています。「私は、まるで磁石に引き寄せられたかのように、空腹で絶望的な母親に近づきました」ドロシアはその瞬間をロマンチックに記憶していました。それもそのはず、彼女にとってはキャリアの一大転機となる写真だったのですから。「彼女はテントに子どもたちを抱えて座り、私の写真が助けになることを知っているように見えました。それは彼女だけでなく私も助けることになったのです。その意味で、私たちにはある種、対等の関係がありました」

ドロシアが当時を振り返って「対等」と解釈した関係はもちろん存在していませんでした。彼女が撮影した写真は、そこに映された苛酷な現実とは一切関わりを持たない人々に絶賛されたのです。そして、彼女はフローレンスやその子どもたちに一銭も支払うことなく、富と名声を手に入れました。ドロシア・ラングは1965年に亡くなるまで、写真に写っている女性の名前を知りませんでした…知ろうとしたことさえなかったのです。

写真が撮影されて40年以上たった1970年代末、被写体の身元がフローレンスだと判明。フローレンスは地元紙モデスト・ビーに当時のことを語っています。それによると、ドロシアはフローレンスの名前も聞かず、彼女の話に耳を傾けるでもなく、勝手に自分で言いだした秘密保持の約束ですら、その日のうちに破ってしまったのです。「この写真は、彼女に富と名声をもたらしましたが、私には何の役にも立ちませんでした」とフローレンスは語っています。

フローレンス・オーウェン・トンプソンは、逆境の中で10人の子どもたちを育てあげ、晩年に再婚して暮らしを安定させ、1983年、80歳でその波乱の生涯の幕を閉じました。彼女には、10人の子ども、39人の孫、74人のひ孫がいます。

ドロシアとフローレンスの間に強者と弱者という歪んだ非対称性があったことは否定できません。一方で、多くの人の心を揺さぶったフローレンスの写真は、思慮深く強い彼女の本質を的確に捉えていたようにも思えるのです。

プレビュー画像: ©Facebook/Weird History