カレン・カーペンターは天から授かった歌声を開花させた しかし母親が言い放った言葉に生涯呪いをかけられる

カーペンターズを知らない人はいないでしょう。

リチャード・カーペンターとカレン・カーペンターの兄妹ポップ・ミュージック・デュオ。

「トップ・オブ・ザ・ワールド」「イエスタデイ・ワンス・モア」などの名曲は世代を超えて愛され、活動停止から長い期間を経た今でも耳にする機会は多いでしょう。

しかしこの伝説的なデュオは、悲劇的な幕切れとなってしまったことでも有名です。

ボーカルであるカレンの突然の死によって、活動の可能性は永遠に閉じられてしまったのです。

なぜ、カレンは死ななければならなかったのか…?

そこには、母親との関係性に悩みもがく一人の女性の一面があったのです。

 

兄から遅れること4年、カレン・カーペンターは、1950年にコネチカット州ニューヘーブンで生まれました。

おとなしい兄、リチャードがピアノの練習に精を出す一方で、カレンの方はと言えば、ジッとしていられずにすぐに野球の練習へ駆け出して行ってしまうような、おてんばな少女でした。

そんなカレンでしたが、マーチングバンドでたまたま出会ったドラムにだけは熱中することができました。カレンの活発な気質と、ドラムがマッチしていたのかもしれません。

しかし両親はこう言って反対していたそうです。

「ドラムなんて女のやるものじゃない」

そんな彼らに転機が訪れたのは1966年のことでした。ミュージシャンを目指していた兄妹でしたが、初めて契約をしようとしていたレコード会社が、カレンのボーカリストとしての才能を見出したのです。それは、バンドを売り出すためにはボーカルが必要であるという安易な理由からでしたが、いざ歌を歌わせてみると、カレンの歌声は天性のものであると誰もが納得しました。

しかしここからカーペンターズの音楽キャリアがスタートしたわけではありません。レコード会社は、資金不足が原因で、妹のカレンとだけ契約を結ぼうとしたのです。

そこにストップをかけたのは母親でした。母親は、兄・リチャードの音楽的才能を強く信じていた一方で、妹・カレンに対しては、「女は主婦としての能力があってこそ一人前」と言い聞かせ、才能を認めようとしなかったのです。

しかしカレンとリチャードの才能は、すぐに別のレコード会社からも見出されます。

1969年、ついに兄と妹で「カーペンターズ」として契約を果たし、ファーストアルバム「Offering」を発売し、これがビルボードホット100に入ったことで、世界はこのミュージック・デュオを認識し始めます。

次なるシングル「Close to You(遥かなる影)」は初週ビルボード56位から2週目には7位に跳躍、そしてついにナンバーワンに。

そしてこれをタイトル曲にしたセカンドアルバム「Close to You」は、リチャードのアレンジ力も存分に発揮され大ヒットを記録。

こうして一躍スターダムにのし上がったカーペンターズ。しかしカレンの悲劇はここから始まります。

当時は、ロック・ミュージックの黄金期。

カーペンターズのような、大衆性の強い、ポップでソフトな音楽は、大きな収益を上げる一方で、一部の人々から「これは子供が聴くものだ」と揶揄の対象になってしまいます。

からかいの一環なのか…ある日、地元紙がカレンの高校時代の写真を掲載し、「chubby sister」…太っちょの妹と紹介したのです。

思春期の頃から体形を気にしていたカレン。この出来事がきっかけで、体型に対するコンプレックスは加速していってしまいます。

ミュージシャンとして人気が出、ステージで歌声を披露するたびに、「もっと痩せなければ」という強い強迫観念に襲われるようになったカレン。

人目に晒されるストレスは、想像を絶するものでした。もはやカレンにとって、歌うことは楽しみではなくなっていたのです。

 

久々に実家に戻ったカレン。母親に「痩せすぎている」と責められた時、兄リチャードに向かってこう言ったそうです。

「あなた、子供の時、私に太っちょって言ったこと覚えてる?」

体型に対する歪んだ固執を抱えて、カレンはどんどん痩せ続けていきました。

そして当然、限界を迎える日がやってきます。

ステージの上でカレンは栄養失調で意識を失い、緊急搬送されます。

病院に運び込まれたカレンの体重は、カレンの身長163センチの平均値からなんと16キロも下回っていたと言います。

医師はカレンがドラッグを使用しているのではないかと疑いましたが、その証拠を見つけ出すことは出来ませんでした。

実際のところ、カレンが蝕まれていたのはドラッグではなく、もっと重大な心の病だったことは間違いありません。

このようにカーペンターズの活動は徐々に停滞していき、兄リチャードもまた、1978年に過労が原因の睡眠薬中毒で倒れてしまいます。

リハビリのためリチャードが休業をとるタイミングで、ついに兄と妹は、幼少時代からずっと離れることのなかった絆を断ち切る決心をするのです。

2人は距離を置き、それぞれ独立した生活を送り始めます。

 

カレンの私生活に変化が起きたのは1980年のことでした。9歳年の離れた不動産実業家と出会い、電撃結婚を果たすのです。

スター業から退き、穏やかに専業主婦として生きたいという願望も持っていたカレンでしたが、世間は依然、カレンにはスーパースターでいることを望んでいました。

相変わらずコンサートで忙しく飛び回らなければならない日々に、拒食症は加速。

 

カレンの家族はついに、心理的障害を専門とする博士に相談します。そこで博士が指摘したのは、カレンが、すべてが思い通りにならない人生の中で、自分が唯一コントロールできる体重に強い固執を感じているということでした。

博士は、治療法として、カレンの母親に、カレンの意志をもっと尊重することを提案します。

しかし、母親はその治療すらも拒否します。世間が言う正しい女性像に娘を育て上げることに固執してきた母親にとって、カレンの意志を尊重すると言うことは、自分の価値観が根底から覆ってしまうことだったからです。

再び入院し、点滴によってなんとか生きるために必要な栄養を取るようになったカレンは、ベッドの上でドラム・スティックをひたすら叩いていたと言います。

(1981年時点でのカレンの様子は以下のビデオからご覧になれます。)

母親との確執、人々の期待と自分の望むものとの狭間に揺れ心身ともにボロボロとなったカレンは、1983年2月4日、わずか32歳の若さでこの世を去りました。

彼女の告別式は1983年2月8日火曜日に教会で執り行われ、カレンは白い開いた棺にピンクのドレスを着せて横たえられ、およそ1,000人の会葬者が最後の別れを告げたそうです。

カレンの死によって、当時あまり一般の人には知られていなかった拒食症や過食症の問題は、広くメディアで取り上げられるようになりました。有名人たちも自らの摂食障害を公表するようになり、その中にはトレイシー・ゴールド やダイアナ妃といった人がいたそうです。

稀代のスーパースターがたどった不遇な運命。

しかしそれは、決して過去のものではありません。

従来的なジェンダーロールや体型に対する人々の期待に押しつぶされ、生きたいように生きられない人がまだ、この世界には大勢いるはず。カレンの死が訴えかけてくるものは、40年弱の時が流れてもなお、私たちの胸にずっしりと響いてきます。

プレビュー画像: / © YouTube/ NedNickerson2010

出典

プレビュー画像: / © YouTube/ NedNickerson2010

コメント

おすすめの記事