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彼は10歳で男爵になり “日本人初”の金メダルを受賞した。しかしその末路はあまりに悲惨だった。

みなさんはオリンピックの馬術競技で、日本史上唯一の金メダルを獲得した選手の名前を知っていますか?彼の名は西竹一。名前だけを聞いてもピンとこないという人がほとんどかもしれませんが、「バロン西」という彼の愛称を耳にしたことがある人の方が多いかもしれません。

1902年、西竹一は男爵・西徳二郎の三男として東京で生まれました。父の徳二郎は伊藤博文内閣で外務大臣だったこともある敏腕外交官で、義和団の乱の処理に際して西太后から厚い信頼を受け、中国茶の専売権を与えられたことから、巨万の富を手にした資産家でもありました。

しかし1912年、父・徳二郎が死去。竹一は10歳という若さでその跡を継ぎ、男爵となったのです。爵位と共に父の遺した莫大な遺産を相続した竹一でしたが、軍人への道に進み、陸軍士官学校で本格的に馬術に取り組むようになります。

その後、25歳で騎兵学校の学生となり、ロサンゼルスオリンピックの2年前にわずか27歳で日本選手団の候補に選ばれた西。馬術競技には、自らの騎乗技術を活かすことのできる良馬に出会えるかどうかが勝敗の決め手となることを知っていた西は、自費でわざわざ馬術の本場イタリアへ赴き、のちにかけがえのないパートナーとなるウラヌス号を買い入れたのです。

その後、日本で行われた予選会を突破し、代表の座を獲得した西は、ウラヌスを伴って出場した1932年のロサンゼルスオリンピックで地元米国の優勝候補を抑え、日本初の金メダルを勝ち取りました。会場の大観衆は米国の選手が敗れたにも関わらず、西の優勝をスタンディングオベーションで迎えたそうで、それは彼のパフォーマンスが優勝に値するものだと誰の目から見ても明らかだったからかもしれません。

西は当時、日本の満州進出などを理由にアメリカの対日感情が悪化していく中で、現地で車を買い込んで自らの足でいくつもの都市を訪問、流暢な英語で市民との交流を深めました。

明るく知的でハンサムだったバロン西は、誰とでも溶け込める人柄だったそうで、ハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォードと親しい関係にあったことでも知られ、金メダルを獲得した際にはその功績を称えてロサンゼルス市議会によって名誉市民にも選ばれています。

そんな西も戦争という悲しい運命から逃れることはできませんでした。1940年の東京オリンピックに向けて準備をしていた西ですが、第二次世界大戦勃発により東京大会はキャンセル。そして1945年3月、硫黄島の戦いで戦車第26連隊長に任命された西は、わずか42歳にして戦場に散っていきました。西は亡くなるまで愛馬ウラヌスの鬣(たてがみ)を肌身離さず持ち歩いていたそうで、まるでパートナーの後を追うが如く、西が戦死した1週間後にウラヌスも陸軍獣医学校で息を引き取っています。

自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と生前語っていたといわれる西竹一。日本とアメリカ ー 両国の国民から愛されながらも、数奇な運命に翻弄された彼の人生は、戦争の虚しさを私たちに教えてくれます。

プレビュー画像:©Facebook/Akira Katayama