被災地で行方不明者の捜索を続ける「福興浜団」が、地元に笑顔を取り戻すために作った菜の花畑

福島県南相馬市、原町区萱浜(かいはま)。4月になると、海岸から500mほど離れた場所には菜の花畑が広がります。 週末になれば家族ずれで賑わい、子どもたちの笑い声が響く黄一色の花畑は、地元の消防団仲間にボランティアが加わって結成された「福興浜団(ふっこうはまだん)」が毎年育てているものです。

2011年の津波で大きな被害を被った萱浜地区に「笑顔を取り戻したい」という願いのもと始められた菜の花畑の製作は、昨年で3回目を迎えました。

福興浜団の代表を務める上野敬幸は、5年前の東日本大震災の津波で両親2人と子ども2人を失いました。

2011年3月11日。萱浜に波が押し寄せたとき、上野さんは地消防団のリーダーとして地域の人々の救出に当たっていました。仕事に出ていて難を逃れた妻の貴保(きほ)さんとは再会できたものの、震発生直後に自宅で無事を確認し、避難していると信じていた他の4人の姿がどこにも見当たりませんでした。

その直後、福島第一原発事故が発生。政府による緊急事態宣言を発令で、第一原発から北に約22キロの萱浜は屋内退避区域に指定されます。

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警察も消防も自衛隊も救助や捜索に来ない中、消防団のメンバーだけが残った萱浜で上野さんは家族を捜し続けました。避難指示に伴い、福島第一原発から半径20km内外の地域では、津波に巻き込まれた人の救助捜索や遺体収容が震災発生から約1か月行われず、行方不明者捜索は地元住民に限られていたのです。

その期間で上野さんたちは40人近くを捜し出しました。ぬかるみの中やがれきの下には、よく見知った隣近所の顔がいくつもあり、萱浜のみで138人もの尊い命が奪われました。その中には、母の順子さん(同60歳)と長女の永吏可(えりか)ちゃん(当時8歳)が含まれていました。

捜索隊がすぐ入れば、助かる命もあったかもしれない。多くの涙が流された日々でした。

やがて消防団の活動にボランティアが加わるようになり、捜索ボランティア団体「福興浜団」が結成されました。上野さんは福興浜団と共に、いまだ行方不明のままの父の喜久蔵さん(当時63歳)と長男の倖太郎くん(当時3歳)、そして家族以外の行方不明の人々の捜索活動を今も続けています。 

福興浜団が定期的に行なっている捜索活動では、原発事故で手がほとんど入らなかった避難区域などの海辺を中心に、家や車の残骸をかき分け、がれきを撤去しながら、砂を掘り、消波ブロックの隙間から遺骨や手がかりになりそうなものを捜します。地道で体力的にも精神的にも辛い作業です。しかし行方不明者がいるかぎりは、止めることはできません。

また福興浜団では、萱浜を「みんなで笑い合えるところにしたい」という願いから、人々を笑顔にするようなイベントも企画しています。春には菜の花畑迷路、夏には打ち上げ花火などを毎年開催。イベントには、萱浜の人々の涙重ねた末の強い思いが込められています。

これは昨年の春、菜の花が満開になったころの様子です。

一面荒野と化し、土色ばかりの景色の中に鮮やかな黄が広がります。

菜の花畑は、子どもたちが楽しめるように複雑な迷路になっています。

頭上には、永遠に3歳の息子のために上げられた鯉のぼりがはためきます。

上野さん夫婦は今、震災の半年後に生まれた次女の倖吏生(さりい)ちゃんと共に暮らしています。娘の存在は、夫婦の心の支えです。

東日本大震災の発生からまもなく6年となる中、行方不明者は宮城、岩手、福島など6つの県で、合わせて2500人以上に上りますが、警察などの捜索で見つかる遺骨は年々減少しています。1人でも多く行方不明者が見つかることを願いながら、地元の復興、笑顔いっぱいの未来を求めて、上野さんたちの活動はこれからも続けられます。

故郷が跡形もなく流された悔しさや、かけがえのない家族との突然の別れを経験する悲しみは計り知れません。涙がたくさん流れた地を笑顔で再生しようとする福興浜団の活動に胸が熱くなります。

福興浜団の活動はFacebookページかたフォロー・応援することができます。そこにはたくさんの笑顔と、復興に向けて頑張っている人々がいます。

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