伝染病をでっち上げ、ユダヤ人の命を救ったイタリア人医師の実話

1940年4月、ドイツ軍が西部方面での侵攻を開始した年、ムッソリーニ政権下のイタリアはドイツ側に大戦に参戦します。 その後、ローマを含めたイタリア北半分はナチス・ドイツの占領下に置かれ、元々人種差別政策がなかったイタリアでもユダヤ人迫害が始まりました。

当時、ナチスドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)に対してバチカンが積極的な反対行動を取ることはありませんでした。教皇ピウス12世は後に「ヒトラーの教皇」とも揶揄され、教皇が黙殺したことにより犠牲者が増えたと考える歴史家も多くいます。バチカン市国が位置するローマでも1943年10月16日にナチスによるユダヤ人狩りが始まり、幼児を含むで2000人以上が捕らえられ、列車でアウシュビッツ強制収容所に送られました。内、戦後まで生き延びることができたのは、わずかに十数人でした。

着の身着のまま家から連れ出された人々が次々と市内の広場に集められていく中、数名が監視の隙を見てテベレ川に飛び込み、中州のティベリーナ島を目指して泳いだと言われています。彼らはティベリーナ島に建つファーテベネフラテッリ病院を目指していたのです。

ファーテベネフラテッリ病院(1584年設立)ではユダヤ系イタリア人医師たちが数名働いており、ヴィットリオ・サチェルドッティ医師もその内の一人でした。サチェルドッティ医師は、ユダヤ人狩りが始まる前からすでに病院内に友人や親戚をかくまっている人物としてユダヤ人のコミュニティーでは知られていました。

そのとき、病院に助けを求めてきたユダヤ人を守るため、サチェルドッティ医師は同僚のアドリアーノ・オッシチーニ医師とジョヴァンニ・ボロメオ医師と共に、調査に訪れるであろうナチス親衛隊(SS)の目をごまかすための驚くべき方法を思いつきます。

それは、「伝染病」をでっち上げ、ユダヤ人たちを隔離病棟にかくまうというものでした。

ファーテベネフラテッリ病院の一部の医師や職員たちに「K症候群」という架空の病名が共有されました。「K」とは、当時、ドイツ軍のイタリア戦線司令官アルベルト・ケッセルリンク(Albert Kesselring)と後にローマのゲシュタポ長官となったヘルベルト・カプラー(Herbert Kappler)の頭文字をもじった名称でした。

伝染病は感染力が非常に強く耐えがたい苦痛を伴う上に、進行が早く症状も重篤になる傾向がある病であるとし、感染対策のために患者は厳重に管理された隔離病棟に収容しなければならないという偽情報を流しました。

この作戦は、見事成功します。

ドイツ軍の調査が病院に入った際、医師たちは「K症候群」に関する注意事項を伝えた上で軍人たちを隔離病棟へと案内します。調査隊が病棟へ入ると同時に「患者」たちは、(練習通り)一斉に咳き込み、痛みに悶え、うなり声をあげました。

医療関係者を含まない若い兵士たちで編成された調査団は、これを目撃し、得体のしれない恐ろしい病気への感染を恐れてきびすを返して病棟を後にしたのです。

ファーテベネフラテッリ病院に「K症候群」疾患患者としてかくまわれていたユダヤ人の正確な数は不明です。しかし、ユダヤ人救済のためにサチェルドッティ医師たちが思いついた噓の病により、20人から40人の命が救われたと考えられています。

救えたのは抹殺の対象となった人々のほんの一部であったとしても、狂気のナチス・ドイツからユダヤ人を助けるために医師たちがとったのは、勇気ある、讃えられるべき行動でした。現在も病院として機能し続けているファーテベネフラテッリ病院には、2016年、国際ワレンバーグ協会(ラウル・ワレンバーグ:ユダヤ人の命を救ったスウェーデンの実業家)から「House of Life(命の家)」の称号を授与されています。

当時、サチェルドッティ医師と共に「K症候群」を思いついたオッシチーニ医師は、後にこう語っています。

「戦時中の経験から私は、人は自分の利益のためではなく、人道原則にしたがって行動すべきであることを学んだ。これを出来ない人間は、それを恥ずべきである」

出典

Perfecto

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