現代に貴重な資料を残したポーランド人のアイヌ研究家

現在目にするアイヌの白黒写真のほとんどは、実は1人のポーランド人男性によって撮影されたものだという事をご存知でしたか。 彼の名前は、ブロニスワフ・ピウスツキ。その人生は、時の情勢に大きく翻弄されたものでした。

ブロニスワフ・ピウスツキは、1866年、現在のリトアニアのズウフという村で生まれました。弟は後に新生ポーランド共和国初代国家元首となるユゼフ・ピウスツキです。1886年、ブロニスワフはロシアのサンクトペテルブルク大学の法学部に入学しましたが、翌年にアレクサンドル3世暗殺計画に連座して、シベリアよりもさらに僻地の北樺太へ流刑となりました。

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はじめは大工として刑を受けましたが、高学歴だった彼はすぐに原住民とその文化を調査する特命を受けました。その傍ら北樺太の原住民族ニヴフの子供達のために識字学校を設立。アレクサンドル3世の死後1896年に大赦され、その翌年には刑期を終えました。しかし刑期が終わってからも彼は北樺太で民俗学の研究に没頭し、さらにはアイヌ研究に惹かれていきました。科学アカデミーの副院長の助けなどもあり、1902年にはカメラと蝋菅蓄音機を使って南樺太に趣き、アイヌに関する資料収集を始めました。

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その間、南樺太の栄浜村にある集落アイ(日本名:相原)に住み、村長バフンケの従妹チェフサンマと恋し一男一女をもうけました。家族ができたことで、アイヌの人々に教育の機会を与えたいという彼の情熱はさらに高まり、南樺太でも数校識字学校を開きました。樺太アイヌの教育者として有名な千徳太郎治は、以前ブロニスワフからロシア語を習った経緯などもあり、この学校で教鞭をとりました。しかし軌道に乗りそうだった教育事業も日露戦争によって振り出しに戻ってしまいます。

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日露戦争以前はロシアと日本は樺太に明確な境界線を設けていませんでしたが、1905年7月、樺太の戦いで樺太を占領した日本は、ポーツマス条約によって樺太の北緯50度以南を日本領としました。その秋にブロニスワフは、日露戦争での日本の勝利を受けて独立運気の高まる祖国ポーランドに家族を連れて帰ろうとしましたが、村長バフンケの反対にあい、妊娠中の妻と息子と決別して帰国することになりました。バフンケの反対の理由は詳しく記されていませんが、当時列強に分割されて存在していなかったポーランドに妊娠中の妻と子供を連れて行かせることが危険だと思ったのかも知れません。

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翌年の1月に東京を訪れたブロニスワフは、ロシア文学翻訳者や記者として有名な二葉亭四迷らと知り合いになりました。知識人に対し日本の統治下に入った樺太アイヌの救済を訴えましたが、残念なことにあまり相手にされませんでした。またロシア人の反皇帝組織とも接触した後、アメリカ経由でオーストリア統治下のガリツィアに落ち着きました。そして幼馴染で親友のマリア・ザルノフスカと再会。マリアは公務員の妻でしたが、2人とも倫理や法律を無視して公然と結婚を宣言しました。しかしその数年後、マリアの胸に悪性腫瘍ができて体調が悪化した結果、2人の結婚生活が破綻し、マリアは元夫に引き取られました。こうした怒涛の人生の中でもブロニスワフは着実にアイヌ研究を続け、1912年、長い年月と情熱をかけた『アイヌの言語・フォークロア研究資料』を完成させました。

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のちに初の国家元首になる弟のユゼフ・ピウスツキも、1904年に東京を訪れ、日本政府にポーランド独立支援を要請しています。ユゼフはポーランドは多様な文化が共存した多民族国家であるべきだと考えていました。ブロニスワフもポーランドの独立を強く願っていた一方で、ポーランド語を話しローマ・カトリック教会の教えに従う単一民族国家を標榜する、弟の政敵であるロマン・ドモフスキのグループに参加します。少数民族アイヌの救済を訴えていたブロニスワフがなぜこの決定を下したのか、理由は今となっては定かではありません。

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ブロニスワフはヨーローッパに戻りドモフスキの組織する「ポーランド国民委員会」のパリ事務所で働いていましたが、1918年、第一次世界大戦終結を目前にしてパリのセーヌ川に身を投げ、波乱の一生に幕を閉じました。

ブロニスワフが生涯を通してアイヌ民族研究に情熱を燃やし続けたのは、列強の思惑に翻弄され、抑圧、差別された当時のポーランド人の姿が、アイヌの人々の当時の姿と重なったからなのかもしれません。

現在ではブロニスワフの著作は、類を見ないほどアイヌ語を性格無比に記した貴重な資料としてアイヌ語研究者の座右の銘となっているそうです。また彼が大量に残した写真・音声資料は、最古の樺太アイヌの音声資料として、文化人類学的に大きな価値を持っています。1980年代になってようやく蝋管は復元され、現代にアイヌ民族の音声を蘇えらせています

2013年10月19日、その功績を讃えられ、祖国のポーランド政府から白老町のアイヌ民族博物館に胸像が贈られました。

ブロニスワフ・ピウスツキは樺太に戻ることはありませんでしたが、彼のアイヌ研究の結果は、第二の故郷と人々のために今も一級資料として活用されています。

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