【813人もの日本人が死んだ】寒さ、飢え、シラミ、差別を乗り越えて457人の日本人捕虜が作り上げた物の壮観さに、ウズベキスタン人は言葉も出なかった。

YouTube/KSM WORLD NEWS

皆さんは、中央アジアの国ウズベキスタンのことをどれだけ知っているでしょうか。国名を聞いたことはあっても、深く知っている人は少ないのではないでしょうか。シルクロードのど真ん中に位置するこの国の首都タシュケントには、華麗なオペラハウスがそびえ立っています。その名もナヴォイ劇場。その劇場の左壁のプレートには、日本語の文字がしっかりと刻まれています。しかし一体、なぜ?実は遠い遠いウズベキスタンの人々にとって、日本はとても大切な国だったのです。その陰には、457人の名もなき日本人捕虜の姿がありました。

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1945年8月15日、日本は敗戦を迎えました。その際、約60万もの人々がシベリアに強制連行され、捕虜となりました…シベリア抑留です。当時ソ連の一部だったウズベキスタンでも、約2万5千人もの日本人が強制労働を課せられました。労働環境は劣悪そのものでした。猛烈な寒さに加え、飢餓、シラミ、そして現地人からの差別…その過酷さは、わずか2年で813名もの死者が出たという数字を見ても、容易にうかがい知ることができます。

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永田行夫元陸軍技術大尉率いる457人からなる「タシュケント第四ラーゲリー隊」もまた、強制労働に従事させられていました。隊長の永田氏は当時25歳。彼らに課された任務、それはソ連共産党の威信を示すためのオペラハウス「ナヴォイ劇場」の建設でした。戦争が終わり、ようやく帰国できると思っていた日本人捕虜たちにとって、その任務は地獄そのものでした。いつ帰れるか分からない先の見えない状況に、多くの人が生きる希望すら失いかけたに違いありません。しかし隊長の永田氏は、こんな時こそ日本人ならではの和、結束を見出すべき時だと隊員を鼓舞し、2年以内に劇場を完成させ、みんなで日本の桜をもう一度見ようと約束します。

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そんな経緯で、過酷な労働環境の中でも、日本人は実直勤勉に仕事に取り組みます。日本人があまりにも時間に正確なので、日本人が仕事場に向かう下駄の音を目覚まし時計代わりにしていたウズベク人もいたと言われています。そして日本人のことを「ナチスの同類」と言い差別してきたウズベク人の心にも、次第に変化が現れます。自らが罰せられるリスクを冒してでも、日本人に食べ物を分け与えるウズベク人もいたそうです。

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そして1947年、開始から実に2年の時を経て、ナヴォイ劇場は完成しました。優に3年はかかるであろうと言われていた工程でしたが、想定を大幅に上回るスピードで日本人は建設を完了させたのです。壮観な外観、繊細な内装は、世界最高峰のオペラハウスと呼ぶにふさわしいものでした。永田氏率いるラーゲリー隊は、過酷な環境下でもわずか2名の犠牲者を出したのみで、永田氏を含む455名は無事に日本に帰国することができたのです。

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奇跡はこれだけではありませんでした。1966年4月26日、タシュケント大地震がウズベキスタンを襲います。マグニチュードこそ5.0と大きくはありませんでしたが、余震が1000回以上続いたため、首都タシュケントに甚大な被害がもたらされました。建物の実に3分の2、78,000棟が崩壊するという壊滅的状況の中、そこには全く無傷で凛と立つナヴォイ劇場の姿がありました。ナヴォイ劇場は避難場所として機能し、多くの命を救うことになります。この奇跡を目の当たりにしたウズベク人たちは、日本人の仕事に尊敬の眼差しを注いだと言います。

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このエピソードは、メディアや書籍でも幾度か紹介されているため、ご存知の方もいるかもしれません。今でもなお、ウズベキスタンでは、子供は母親から「日本人のように勤勉になりなさい」と教えられるそうです。日本から遠く離れた、シルクロードのど真ん中で日本人が密かに尊敬を集めている背後には、名もなき457人の日本人の姿がありました。私たちも、過去にそんな偉大な人たちがいたということを時には思い出し、その素晴らしい心を次に繋いでいきたいものですね。

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