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えらい

99年前ある2人の日本人は、世界を敵に回してもロシア人を救った。そのロシア人の子孫が起こした行動に、涙が止まらない。

6年前、あるロシア人女性が「日本の恩人に感謝を伝えたい」と来日しました。テレビでも紹介され、話題になったその女性の名前は、オルガ・モルキナさん。オルガさんは、ある日本人の墓前に立つと、静かに手を合わせたと言います。

「私の祖父母の、命の恩人です…」

Twitter / tomo_pika0217

この物語の主人公の名は、勝田 銀次郎。
第一次世界大戦で揺れ動く時代に、海運業で名を馳せた男です。その彼が、じつに800人のロシアの子供の命を救ったという事実は、長い間歴史に埋もれ、誰にも知られることがありませんでした。助けたのが『敵国』の人命だったため、関係者は勝田氏が非国民扱いされないように、固く口を閉ざし続けたのです。

しかし、最近になって紐解かれたその真相は、実に誇り高い慈愛の行為でした。

Twitter / tomo_pika0217

1920年、日本は第一次世界大戦の余波にざわめいていました。当時46歳、すでに船会社の事業を大成功させ、富を築いていた勝田氏のもとにアメリカ赤十字の職員が訪ねてくるところから、この物語は始まります。

職員の話によると、ロシアで社会主義革命が勃発し、親元を離れ疎開していた800人のロシアの子供たちが命の危機に瀕していると言います。彼らを救うため、すでに国外脱出した親たちの元へ彼らを送り届ける必要があり、そのために船が要ると言うのです。

資本主義と社会主義の世界的な緊張感が高まっていたこともあり、国際問題に発展することを恐れた他国は軒並み協力を拒んでおり、勝田氏が最後の頼みの綱だと言います。もちろん勝田氏にとっても、それは簡単な決断ではありませんでした。失敗が意味するところは、世界を敵に回すこと、そして、身の破滅です。

しかし、そのリスクを理解しながらも、勝田氏は決意します。「ロシアの800人の子供たちを、親元へ送り届ける」と。勝田氏は巨額の私財を投げ捨て貨物船「陽明丸」を改造し、子供たちが長期間航海できるような客船へ改装させます。

そして勝田氏は、運命の舵を握る船長に茅原 基治氏を指名します。この物語の、もう一人の主人公です。茅原氏は当時35歳と船長としては若かったものの、その可能性を秘めた英気を勝田氏は見逃さなかったのでしょう。

Twitter / tonboeye

そして1920年7月、陽明丸は神戸を出発します。しかし、この航海は2人の想像を遥かに超えるほど困難なものになります。

陽明丸は、到着したロシアのウラジオストクで800人の子供たちと教師、赤十字メンバーなどおよそ160人を乗せると、地球を半周する世紀の大航海へ乗り出しました。向かう先は、子供たちの親が避難していると伝えられていた、フランスです。

Twitter / tomo_pika0217

途中、物資などの積み込みのため、北海道の室蘭に立ち寄った陽明丸。そこで船長の茅原氏は赤十字スタッフから、ロシアの子供たちに室蘭市内を見せてあげることはできないかと頼まれます。この決断もまた、大きな責任の伴うものでした。しかし茅原氏は、すべての責任を自分が負うと言う条件で、役所から子供たちの上陸許可を得ます。日本とロシアは元敵国同士。茅原氏は、ロシアの子供たちに日本を見てもらうことで、未来の日露関係の改善を願ったのかもしれません。

ロシアの子供たちは茅原氏のはからいによって日本の小学校を訪問しました。偏見に縛られない自由な心を持っていたロシアと日本の子供たちはすぐに打ち解け、たった1日の訪問だったにもかかわらず、陽明丸が室蘭を出発するときには、日本の子供たちは船の姿が見えなくなるまで手を振り続けたと伝えられています。

Twitter/ ebichan123

そしてフランスに到着した陽明丸でしたが、そこで驚愕の事実が発覚します。なんと、子供たちの親がフランスに避難しているという情報は誤りだったのです。結局、陽明丸は、当時のロシアの首都であったペトログラード(現サンクトペテルブルク)に近い、フィンランドへ向かうことになります。しかし、そこへ向かうということは、バルト海を抜けることを意味していました。

実は当時、バルト海からフィンランド湾一帯には、第一次世界大戦の際に仕掛けられたおびただしい数の機雷が未処理のまま残っていたのです。まさに『死の海』でした。しかし、引き返すことはできません。茅原氏は、フランスで見つけたバルト海を熟知した水先案内人に協力を仰ぎ、勇敢にもこの海に挑んだのです。

flickr / miguelvirkkunen

船は車のように簡単に進路を変えられないため、茅原氏の航海チームは、24時間体制で監視を続けながら、ゆっくりゆっくりとバルト海を進んでいきました。その時の緊張感と疲弊は、想像を絶するものでした。

陽明丸の航海開始から、じつに3ヶ月が経過したある日。フィンランドで、子供たちと別れを告げる茅原氏の姿がありました。通常の倍の時間をかけて、バルト海を無事に抜けることに成功したのです!ロシアの子供たちは、茅原氏のことを日本語で「ニイサン」と呼び慕っていました。そして、涙を流して別れを惜しんだと言います。

最終的に子供たちは、フィンランドを経由し故郷のペトログラードへたどり着き、親元へたどり着くことができました。茅原氏も無事に日本へ帰国し、このあまりにも壮大な救出作戦は、幕を閉じたのです。 

Twitter / qqge8nz9

勝田氏と茅原氏は、多くの人々を救ったという誇りを胸に秘めて残りの生涯を過ごしたに違いありません。しかしながら、当時ロシアと日本の関係は険悪で、作戦に関わった人々が積極的に話を広めようとしなかったため、時代の流れとともに、その功績は忘れ去られていきました。

しかし近年になって、大きな動きがありました。冒頭のオルガさんの強い願いによって、ロシアの子供たちを救った人物を特定するための本格的な調査が開始されたのです。実は、陽明丸に命を救われた子供同士がその後結婚しており、オルガさんはその孫だったのです!

Twitter / RS_232C_sato

オルガさんは、「カヤハラ」「ヨウメイマル」「ムロラン」というわずかなキーワードを手がかりに、日本人の協力を仰ぎ、そしてついに勝田氏と茅原氏にたどり着いたのです。このあまりにもドラマチックな出来事は、テレビでも報道されるに至りました。こうして、2人の英雄は、ついに日の目を見ることになったのです。

Twitter / qqge8nz9

Twitter / rekijodehanai

恩人の墓前の前でついに感謝を伝えることができたオルガさん。茅原氏は、未来のロシアと日本が手を取り合って歩めるように、室蘭の小学校へロシアの子供を連れていきました。彼の願いは、約100年の時を経て、叶えられたのかもしれません。過去の日本にこのような偉大な男たちが生きていたという事実に誇りを持って、私たちも未来へ向かって思慮ある行いをしていくべきかもしれません。その行為は、長い時を経ても、必ず返ってくることをこの陽明丸が証明しているのですから。