ちえとくをフォローする

スポーツ

【オリンピックで消えた日本人】1912年・ストックホルム五輪で1人の選手が消息を絶った。50年後驚きの真実が明らかになる。

世界中のアスリートが一堂に会するオリンピックの舞台では、これまでにもさまざまなドラマが繰り広げられてきました。中でも1912年ストックホルム五輪で競技中に忽然と姿を消した1人の日本人マラソン選手・金栗四三(かなぐりしそう)の物語は100年絶った今でも人々を魅了してやみません。

1891年8月20日に熊本県で生まれた金栗。東京高等師範学校(現・筑波大)に入学して2年目の1911年には翌年スウェーデンの首都ストックホルムで開催される夏季オリンピックのマラソン予選競技会に「マラソン足袋」を履いて出場し、当時の世界記録を27分も縮める記録(2時間32分45秒)を叩き出し、短距離の三島弥彦選手と共にわずか20歳で日本人初のオリンピック選手となりました。

優勝の期待を背負って迎えたストックホルム五輪。しかしマラソン競技当日ストックホルムは30℃を超える記録的暑さに見舞われます。そんな中始まった過酷なレースは最終的に出場した選手総勢68名の内なんと半数にも及ぶ選手が途中棄権し、ゴールに辿り着く事ができたのは僅か34人という悲惨な結果に…。金栗と同じレースに出場していたポルトガル代表フランシスコ・ラザロ選手は競技中に脱水症状が原因で倒れ、翌日亡くなっています

London Marathon

金栗も残念なことにレース途中約27km地点で日射病のため意識を失ってしまいます。幸い沿道に倒れていた彼を近所の農家が介抱してくれたため、大事にいたらずには済みましたが、金栗が目を覚ましたのはすでにレースが終了した翌日の朝でした。

彼が倒れた直接の原因は日射病ですが、実は競技当日の金栗のコンディションはあまりにも不利なものでした。当時日本からスウェーデンへは船やシベリア鉄道を乗り継いで約20日間もの長旅が必要で、疲れが溜まっていたうえ、白夜に近い夜の明るさのため満足な睡眠もとれず、さらにマラソン競技当日、会場への金栗を送迎する車の手配ができておらず、走っての会場入りを余儀なくされていたのです。

世界記録を破り、日本国民の期待を一身に受けて望んだストックホルム五輪でメダルはおろか、完走すらできなかったことを金栗は深く悔やみ、失意の中で帰国しました。

帰国後も金栗は4年後の第6回ベルリン五輪を目標に走り続けます。国内で行われた競技会で2度も世界記録を出す勢いを見せ、メダル獲得は時間の問題と思われた矢先の1914年、第一次世界大戦が勃発し、ベルリン・オリンピックは中止に追い込まれてしまいます。

img567

それでもあきらめない金栗は第一次世界大戦終戦後の1920年、第7回アントワープ・オリンピックに晴れて出場を果たします。しかし結果は振るわず16位。次の第8回パリ・オリンピックにも日本代表として派遣されますが、こちらも途中棄権。一時は日本中の期待を背負って走った男の事を国民は次第に忘れていきました。

pin

ストックホルム五輪を棄権してから約50年後の1967年3月、既に70歳を超えていた金栗の元へ一通の手紙が届きます。差出人はなんとスウェーデンのオリンピック委員会でした。その内容を見て金栗は目を疑います。なんとストックホルム五輪開催55周年を記念する式典に彼を招待したいというのです。実は第5回オリンピック大会時、完走できなかった事で自責の念に駆られた金栗は正式な棄権届けを提出しないまま黙って帰国していたため、オリンピック委員会の記録上では「競技中に失踪以降行方不明」として扱われていました。

そして記念式典を計画するにあたり「消えた日本人」の行方を追っていたオリンピック委員会が彼を招待することを決定したのです。その招待状には「あなたは1912年のストックホルム五輪マラソン競技においてまだ完走されていません。あなたがゴールするのをお待ちしております」と書かれていました。

Stockholm

55年ぶりにスウェーデンの地を踏んだ金栗は、1912年にゴール地点だったスタジアムを訪れ、大勢の観客が見守る中20メートルほどの直線を走りきり、ゴールテープを切りました。観客の拍手の音が鳴り響くスタジアムに流れたのは「日本の金栗選手、ただ今ゴールインしました。記録は通算54年8ヶ月と6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルム五輪大会の全日程を終了といたします」というアナウンスでした。

それは遠い北欧で日本人初のオリンピック選手という重圧を背負いながらスタートを切った20歳の日本人の若者が、54年かけて遂にゴールを果たした瞬間でした。彼がゴールの後残した素敵なコメントがあります。「長い道のりでした。この間に子供6人と孫10人ができました」

金栗選手の生き様は今を生きる私たちにあきらめないことの大切さを教えてくれます。ダメに思えても何度もトライすれば、もしかしたら最後にはハッピーエンドが待っているかもしれません。

プレビュー画像:©︎Facebook/Hiroshi Tanimoto